子育てとは、直接は関係ないのですが…。
この本がすごく面白くて、でも一気には読めなくて、
図書館で何回も借り直しながら、
家事の合間に、少しずつ少しずつ読みました。
人間とはなにか、
言語とは、認識とはどういうものなのか、
異文化をお互いに認め合い、共存することにどういう意味があるのか、
いろいろなことを考えさせられます。
今、子育てをしている私たちにとっても、示唆に富む一冊だと思います。
著者のK.デイヴィッド・ハリソンは言語学者で、
世界各地の少数民族が話す言語を記録しつづけています。
地球上には七千近い数の言語があるそうですが(知りませんでした!)、
話者が少なくなり、消えかけている言語がたくさんあるそうです。
著者は、「最も言語多様性に富み、言語が最も危機的状況にあり、
そして最も研究の進んでいない言語を持つ地域」を
「言語のホットスポット」と名付けました。
この「言語のホットスポット」は、現在では地球上に二十カ所以上
あるのだそうです。
著者はその現地すべてに赴き、最後の話者たちの言葉を、
可能な限り記録する作業を続けています。
言語には、その土地に生きる人間が、長い年月の中で
培ってきた知恵や知識が織り込まれているため、
言語が消えていくということは、そういった知識や知恵も
消えていくということです。
著者の研究は、少数民族が伝えてきた、複雑で豊かな知恵や知識や歴史に触れる、
壮大な冒険の旅なのだと感じました。
とても内容の濃い本で、私には上手にまとめられそうにないのですが、
印象に残った点を少しだけ。
まず、言語が思考や認識にもたらす影響の大きさについてです。
著者はトゥバ語の「イー」という単語を例に挙げます。これは丘陵の短い側を指すのですが、それを耳にするまで、著者は丘に長短があるなどとは考えたこともありませんでした。しかし、その単語を知ってから、丘の形をよく見て、どちらが「イー」の側かと考えるようになりました。そして、その「イー」の側の方が傾斜が険しいため、家畜を上り下りさせるなら、危険な「イー」を避けるように配慮するようになると気づきます。
しだいに私はこう考えるようになった。言語とは頭のなかだけに、というより話者の頭のなかだけに存在するのではなく、その土地ごとの風景やそこにある事物、さらには生活様式のなかに存在するのではないかと。言語は対象に名前を与えることによってそこに命を吹きこみ、その名がなければ気づかずにいたかもしれないものに目を向けさせる。(p.51)
イーの存在を知れば、もう人からそこを注意しろとか避けろとか指示される必要もない。自分で自然とそうするはずだ。言語とは、はっきり指し示すのではなく、こっそりと有益な情報を教えてくれるのである。(p.52)
つまり言語の拡散は、何かに言葉を与えるだけにとどまらない。いったんそれが語彙に、「心の辞書」に入れられれば、名前を得た概念それ自体が命を持って歩み始める。それが思考や認識の体系化に役立てられていく。(pp.52-53)シベリアでトナカイを飼うトファ族の言語には、トナカイの年齢や状態などの特徴を細かく分けて呼ぶことのできる呼称が何十種類もあります。その呼称の中には、トファの人々が何世代にもわたって注意深くトナカイを観察し、その特徴や習性を細やかにとらえてきた「科学」があるのです。
dönggür(ドゥーングル)とはきわめて性能の高い言葉である。これは「家畜化し、人を乗せられる、去勢されていない三歳の雄トナカイで、初めての交尾期を迎えたが、まだ交尾の準備が整っていない」という意味だ。シベリアでトナカイを飼うトファ族の言語には、この種の言葉がほかにも何十種類とあり、そのそれぞれがトナカイの特徴を正確に言い表せる。(p.63)
ドゥーングルという単語一つを知るだけで、トナカイを飼うトファ族の若い遊牧民は、群れのなかから特定のトナカイを識別する道具を舌に持つことになる。ロシア語を話すようになったトファ族は、トナカイを飼育し、トナカイについて語ることはできるが、そこまで効率的にトナカイを示すラベルをもはや持たない。何世紀にもわたって彼らの先祖が積み上げてきた知恵、シベリア南部の山林にほんのわずか残された環境でトナカイを飼う暮らしに合わせた特別なノウハウが、本質的な意味ではすっかり失われてしまうのである。この話題は非常に面白いと思いました。言語の中に、その民族が培ってきた知恵や知識が、パッケージされているんですね。私が話したり書いたりできるのは日本語だけですが、知らず知らずのうちに、日本語という言語によって私の思考や認識が形作られているんだろうなあ、どんな先人の知恵が受け継がれ、どれほど多くの影響を受けているんだろう、と思うと、とても興味深いです。 では、少数民族の言語を記録し、保存していくことにどんな意義があるのか、もう少し著者の主張を見てみましょう。 少数民族の言語の中には、様々な差別や弾圧に晒されているものがたくさんあります。英語やロシア語を学ぶように強制され、元々の母語を話すのを禁じられたり、使う機会が失われたりして、徐々に話者がいなくなる例が何例も紹介されます。その一方で、失われゆく言語を保存するために、話者や研究者が様々な活動をしている例も紹介されます。 著者は「全員が同じ言語を話せばいい」という主張をする人についても触れています。少数民族の言語は滅びるに任せればいい、世界中が同じ言語(例えば英語)を話せば互いにわかり合える、といった主張です。(実際には、同じ言語を話す人同士でも常に誤解が生じるのですから、こういう発想はあまりにも単純すぎますよね) それに対して、言語学者であり、アニシナーベ語を広める活動をしているマーガレット・ヌーリ博士の話を著者は紹介しています。
ある程度深いレベルまで達すれば、人間の認識はどんな言語を話すかにかかわらず共通のものかもしれない。だが言語はそれぞれ、まったく異なる形で知識を統合し、世界を論じ、名づけ、概念化する方法を促すのである。先祖からの言葉を話さなくなった若いトファ族の場合、トナカイの世界を表現する特別な方法に示される人智の基盤が脆弱になってしまった。希有な知恵が、グローバル化の圧力のもので消え失せていく。(p.65)
言語を生き延びさせていくことが「すべての若者に、違う考え方を持つ機会を与える」と彼女は言う。「先住民の学生と非先住民の学生が、彼らがともに住む土地の言葉を学ぶことによって、お互いもっと深くわかりあえる」と。(p.315)その土地に伝えられてきた言語を学ぶことで、異なる民族・言語の人同士が深くわかりあえる。違う言語が共存することで、違う考え方を持つ機会が保証される。…それはいいかえれば、豊かさということでもあるのでしょうね。 言語学のことも、少数民族のおかれている状況についても何も知らなかった私に、この本は多くのことを教えてくれました。世界の言語の大半は文字を持っていないこと、それなのに第三世界に関する報告では「識字率の低さ」が発展を妨げる大きな指標とされ、「口承率」の高さが考慮されることはなく、口承文学がひどく見下されて無視されているという指摘も、目から鱗でした。 言語や文化の多様性を保証すること、異なる言語や文化を認め合い、保存し、共存していくことの重要性も、心に残りました。自分と異なるものを認め共存していくことは、容易なことではないかもしれないけれど、それが可能になるように、自らの心と頭を常に開かれた状態にしておくこと。「全員が同じ言語を話せばいい」という単純な主張に、簡単に絡めとられてしまわないこと。それが、自らがどんな大人でありたいか、子どもたち(次世代)にどんな世界を残したいか、ということにもつながっていきます。 自分の中の偏狭な差別意識や排他性を乗り越え、他者を理解するための扉をどれだけ開いておけるのか。一人の大人であり、子どもを育てている親として、繰り返し繰り返し、自分の中で問い直していかなければならないことではないかと思います。 他にも、各地の民族が語り伝えてきた豊かな口承文学の世界や、動物や植物に関する知識の深さなど、興味深い内容が豊かに含まれている一冊です。ご興味のある方は、ぜひご一読を。







