<兄弟たち、わたしたちのためにも祈って下さい。・・・わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなた方と共にあるように。(25.28節)> 「私たちの日常は、常に信仰とは異なる問いかけの中に、信仰を否定する問いかけの中にあります。そして、その中で私たちの信仰は常に揺らいでいます。しかし、そうではあるのですが、それでも祈ることが出来ることは幸せです」と鈴木牧師は書き出される。 24節は「あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずその通りにしてくださいます。」真実は神の方にあり、自分自身は信仰において躓いてばかりであっても、召して下さった神が、主を信じる者にして下さることを信じてほしいとパウロは語った。主に救われた者として、恐れず自分自身を神に明け渡して歩む者になってほしいと。 そして「私たちのためにも祈ってほしい(25節)」とパウロは願う。テサロニケの教会を立ち上げたパウロが、教会歴も短いクリスチャンたちに、遜って自分たちのためにも祈りを捧げて欲しいと願った。それは、自分たちが神の国の建設のために用いられ、神の栄光が崇められるためにであった。 最後になって「兄弟たち」が3度繰り返される。「聖なる口づけ」の「聖なる」のギリシャ語は、ここでは「兄弟愛を目に見える形で表す」という意を持つ。当たり障りのない挨拶ではなく、心から相手のことを慮り、挨拶をするようにと命じられる。 「この手紙を全ての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは強く命じます。(27節)」この手紙はパウロの手紙の中で最古のものと考えられており、新約聖書の中でも最も初期のものとされる。それにしてもこの時代、手紙はどのようなものに書かれたのだろうか、それが後世どのような形で発見されたのだろうか。 「パウロはこの手紙をみんなで読んでいくように勧めていますが、終わりの時を思いながら、この手紙を囲んで、食い入るように読んでいる小さなテサロニケの教会の様子が見えるようです。私たちも今、初めの教会のように、一つの御言葉を囲んで、祈りを深めてまいりましょう。」と鈴木牧師は結ばれる。 昨日の礼拝は十字架へ歩まれる主イエスを覚えるレント(受難節)の中での説教であった。ゲッセマネの森で弟子たちをおいて「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り除けて下さい。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行って下さい。(ルカ書22章)」と苦しみもだえ、主イエスは「汗が血の滴るように地面に落ちる。(22章44節)」まで切に祈られた。 しかし、弟子たちは「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と、3度もたしなめられたが眠り込んでしまった。主イエスが「時が近づいた。人の子は罪びとたちの手に引き渡される。立て行こう、見よ、わたしを裏切る者が来た。(マタイ書26章)」と弟子たちに話されていると、ユダが祭司長たちを引き連れて近づいて来た。 聖書は、このようなお方が愚かなあなたの罪のために死なれたのだと告げる。 日曜日はお近くの教会で礼拝をhttp://komatsu.church/index2.html どなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。
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