<だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うように努めなさい。(15節)> 教会は、神の招きと導きによって、主イエスの十字架の復活による救いの恵みに与る信仰を与えられ、主の再臨を信じて待ち望む希望を与えられて共に生きる者の群れである。気の合う人たちと作るクラブではないし、何かの目的をもって集まる結社でもない。主の再臨を待ち望む希望に続いて、パウロは主による兄弟愛について語って行く。 「遠くの愛を美しく語ることは容易ですが、顔を持った兄弟を愛することは困難なことです。ここに記されている勧めは、ほとんど何でもない当たり前の勧めのようですが、心からそのようになれたらどんなに幸いなことでしょう。」と鈴木牧師は説かれる。 例えば「愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい(13節)」などは、表面上では簡単にできることかもしれない。愛想よく、微笑みをもって、人と争わない、人が嫌がることをしないなら、自分もよく知っているし、出来るだけ心がけている。 イスラエルの民において「平和(シャローム)」は、単に争いや、戦争がない状態ではない。もっと積極的に神の祝福が満ちている状態、恵みと喜びに溢れている。そんな様子を意味する。争いをしないという消極的なものでなく、パウロは積極的に互いに愛し合っていくことを勧めている。 愛と尊敬、互いの平安のための具体的行動として「怠けている人を戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。(14節)」とパウロは命じる。 4章11節では、自分の仕事に励み、自分の手で働くようにとパウロは教えている。怠けている人とは、定職を持っているかどうかのことである。当時、再臨を待ち望む信仰が、この世の生活をないがしろにするという思いを生んでいた。そういう人々は、彼らの思う所の信仰的活動に精を出していた。 彼らは何もせずいたのではなく、むしろ多忙に信仰的活動に励んでいた。しかし、生活の面では教会に寄生し依存していた。社会における役割、責任を果たさず、自分の信仰的満足のための活動であった。自分の賜物を教会を築くために用いるようにと、彼らを戒めた。 また、気落ちしている者の傍らに立ち、彼が重荷としていることを背負っていくことが出来るように、手を貸し慰め助けることが求められる。そして、兄弟姉妹が互いの弱さを助け、補い合って生きることこそ、平和に過ごすことの積極的な形であると勧めた。 更に全てのことに忍耐強くとパウロは説く。寛容であることが相手を愛する一番大切な土台だとH長老に若いころ注意された。寛容であることこそ、主イエス・キリストによる信仰と希望に裏付けされた愛の特徴なのだと。 今年の自分の目標は「隣人を愛する」だけれど、なかなかうまくいかない。 日曜日はお近くの教会で礼拝をhttp://komatsu.church/index2.html どなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。
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