<ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(7節)> 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられる者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。(ゼカリヤ書9章9節)」 「イエスのエルサレム入城のお姿はロバに乗って来られる王として、ゼカリヤ書の預言を成就するものでした。軍馬ではなくロバに乗って来られる平和の君のお姿です。」と粂牧師は書き出される。 主イエスの一行は、エルサレムに近づいてきた。目の前にはオリーブ山が見え、そこを東側から西側へ巡るとエルサレムの町が一望できる。その途中の山間にある二つの村は、ユダヤの祭りの時、巡礼の人々の宿となり、また運搬のためのロバの貸し出しもしていた。 主イエスは弟子たちにその村に行って、ろばを引いてくるようにと命じられた。そして「もし、だれかが何か言ったら『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ、渡してくれる。」と言われた。ロバが必要なのは、運搬のためではなく、「主」であることを言われた。 ゼカリヤ書、そしてが弟子たちにお命じになったみ言葉、どうしてそこまでロバに拘られるのだろうかと思ってしまう。ロバは荷物の運搬や農耕に用いられ、人々にとって日常すぎて、牛や羊のように神殿に献げられることもなく、神に相応しい動物のイメージがない。 ゼカリヤは10節で「わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を断つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」と続いていく。 主イエスは名馬に乗ってやって来るような英雄や将軍ではない。主イエスは、神がもたらす救い主はロバによって平和をもたらすのだと。自らの行動によって示された。 大勢の群衆が「ダビデの子にホサナ、主の名によって来る方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と、自分の服を道に敷き、木の枝を切って道に敷いて歓迎した。彼らは主イエスに待ち望んだダビデの子孫、メシアによるダビデ王国の復興を期待した。 群衆は「遂にその時が来た」と歓喜するが、彼らにとってイエスは「ナザレから出た預言者」に過ぎなかった。「主イエスが人の罪を贖う真の意味での救い主であると信じる者はいなかったのです。この歓喜はイエスにとって誤った期待に膨れ上がった空しい叫びに過ぎませんでした。」と粂牧師は説かれる。 「何とかしてくれ」と政府に訴えたい時がある。しかし、大勢の全く考えの違う人々が生きるこの地球、簡単に「はい、対処します」と武器を用意する為政者はこまる。 日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。
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