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澤地久枝 妻たちの二・二六事件(1972)

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妻たちの二・二六事件 (中公文庫)
  『密約 外務省機密漏洩事件』が面白かったので、読んでみました。澤地久枝の処女作だそうです。『密約』は、「外務省機密漏洩事件」の本質に鋭く斬りこむだけではなく、事件の被告であった女性事務官の心情に寄り添いながらも、女性としての在り様を裁くという独自のスタイルをとっています。『妻たちの二・二六事件』も、タイトルとおり「二・二六事件」という語り尽くされた感のある事件を、残された妻(女性)たちの視点で再構成したノンフィクションです。
 処女作に作家のすべてが詰まっていると言われますが、著者の作家としての「立ち位置」が想像できる作品です。

 事件は、昭和11年(1936)2月26日未明に起こり、29日には反乱軍1400名が投降して終息します。陸軍は、3月4日に東京陸軍軍法会議を設置し、4/27に開廷、昭和11年7月5日までに順次判決が言渡され、7月12日の刑が執行されます。背後関係については、昭和12年8月14日判決が言渡され、北一輝、西田税が処刑されます。ほかに、歩兵大尉・野中四郎と航空兵大尉・河野寿が自決しています。

第一次処刑十五名、第二次処刑四名、自決した野中四郎、河野寿を含めて二十一人が汚名のもとで死に、あとに十四人の未亡人が残された。これが二・二六事件の終幕である

男たちが退場し、残された14人の『妻たちの二・二六事件』が始まります。

 二・二六事件は、連隊付きの尉官が連隊長等の不在を狙って兵を動かし、クーデターを起こした事件です。青年将校といわれる彼らの平均年齢は29歳。残された妻たちの多くは20代なかばという若さです。著者は、彼女らが事件に何を感じどう対処し、残りの三十数年をどう生きたかを追い、彼女たちに寄り添って考えます。
 叛乱部隊の輸送を指揮した田中勝は、昭和10年12月27日に結婚し、わずか2ヶ月の後に事件を起こし7月12日に処刑されています。内大臣斎藤実私邸を襲撃した坂井直は、昭和11年2月9日に結婚し、妻との同居生活は20日足らずに過ぎません。残された妻子について、彼らはどう考えて決起に参加したのでしょう。五・一五事件ではだれも死刑となっていませんから、死刑にはならない、陸軍(皇道派)中枢に支持者がいるので「よもや」と考えていたのかも知れません。

決断するまでどれだけ苦悩があったとしても、二者択一迫られて事件への参加を選んだ瞬間、夫は妻子を切り捨てたのである。

と著者は書いていますが、残された妻たちへの女性として身贔屓ではないかと思います。村中孝次、磯部浅一(いずれも事件首謀者)は、「陸軍士官学校事件」とその後の行動で免官となっていますから、決起が失敗すれば、禁固→陸軍追放程度の覚悟はあったと思います。青年将校たちの妻への愛惜を綴った遺書(本書所収)を読むと、死刑を覚悟していなかったようにも思われます。
 この辺りを、著者はうすうす感じているようで、「君側の奸」を除けば天皇親政が実現するという楽観的な観測、維新の功労者としての栄光、という記述もあります。

世間や周囲の人間関係の冷たさ厳しさを考えるときも、夫に置き去りにされた妻の痛みがまず蘇ってくる。
女は子供を産むためのものと、一段低く見る気持ちが「義」と妻子を選択する際、多少なりと作用していたのなら、女はなんとつまらない悲しい存在であろうか。そのあたりのことが、三十年以上たっても少しも明瞭にはなってこなかった。

 いずれにしろ、「十四人の未亡人が残された」ことは事実です。 再婚した未亡人もあるにはあるのですが、彼女たちの多くは子供や親を守って戦中戦後の40年を生きたのです。

愛されることは、辛いことである。二・二六事件の妻たちが、長い歳月、夫の思い出を捨てきれず、事件の影をひいて生きてきたひとつの理由は、死に直面した男の切々とした愛の呼びかけが心にまらみついているためである。短い蜜月と死にのぞんでの愛情の吐露、それは妻たちにとっては見えない呪縛となった

 文字に書かれた歴史は、勝者によるしかも男の勝者によって書かれたものです。その影に涙を流す多くの女性がいた、とは書いていませんが。

 ここにあるのは、人間が共同体を持ってから繰り返し演じてきた、私と公(義)のせめぎ合いではないかと思います。当然に答えはありません。

****************************
 
【以下備忘録】

 二・二六事件は、青年将校の暴発と言うには謎の多い事件です。本書から拾った「謎」に関わる一部です。

・昭和天皇の発言(本庄日記)
26日:「暴徒ニシテ軍統帥部命令ニ聴従セズバ、朕自ラ出動スベシ」「朕自ラ近衛師団ヲ率イテ現地ニ臨マン
27日:本庄武官長は天皇に対し、君国を思ふにい出たるものにして、必ずしも咎むべきにあらず、と奏上しますが、天皇の意見は
朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如き狂暴の将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕(ゆる)スベキモノアリヤ
28日:(行動将校の自刃に際して)「勅使を賜はり死出の栄光を与へられたし」本庄武官長
自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド、以ッテノホカナリ

・2月26日の川島陸相の大臣告示
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ

・謀略
26日午後3時に東京警備司令官香椎浩平中将は、蹶起部隊の占領地域も含まれる第1師管に戦時警備を下令した
叛乱部隊を世紀の警備舞台に編入し、占拠中の場所で警備の任に就くことを命じた。鎮圧にあたる軍当局によって、命令ならぬ命令で出動し襲撃を実行した部隊は、そのまま警備部隊になったのである。(歩兵大一連隊に麹町地区を警備を命じ)
二十七日、緊急勅令により東京市に戒厳令がしかれた。
戒厳令施行の原因である部隊に、戒厳令下の東京の心臓部の警備を命じたのである。

28日には、占拠をやめて原隊に帰れという奉勅命令が出るが、小藤歩一連隊長は、「反乱軍将校の感情激化甚だしきにより」これを将校に伝えなかった。将校たちは例の「勅命は下った軍旗にさからうな」というアドバルーンやビラ、ラジオ放送によって勅命を知り、29日になって原隊に復帰。
 
2月29日、武装を説かれ捕縄を打たれる磯部たちに、白木の棺、白木綿など、手まわしのよい自決の用意がなされていた。

・軍事法廷は、弁護人を付けず、非公開、一審即決・上告を許さずという暗黒裁判。

・戒厳令司令部は、反乱軍が勅命に抗し、撤退しなかったことで「逆賊」とし、軍法会議の法務官(検察官に相当?)は、勅命に抗したか否かは司法問題ではなく、叛乱の事実が問題であり、反乱軍を警備の任に就かせたのは「謀略命令」だとする。

  ◆この辺りは、読んでみたいと思います。
・磯部浅一『獄中手記』(河野司・編『二・二六事件―獄中手記・遺書』)
・松本清張『昭和史発掘』 6~10巻

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