<「しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりもまだ軽い罰で済むのである。」(24節)> 「主イエスは、町々村々を巡り神の国の福音を宣べ伝えられました。そして同時に人間が神の国に生かされていることを具体的に示すため、奇跡の働き、体の癒しをされました。それらの目に見える業によって、神の国に生かされている幸いを明らかにされたのです。いわば、奇跡は主イエスによるストリート・パフォーマンスのようなものです。」とT牧師は話された。 神はイスラエルの民を救うため、またさらに彼らを通してすべての民に救いが及ぶために、次々と預言者を遣わされた。しかし、イスラエルの民は悔い改めなかった。それでも、神は大きな忍耐をもって最後の預言者としてパプテスマのヨハネを遣わされた。 「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。(マラキ書3章)」 主イエスは神の救いのご計画の最後の方として現れ、決定的な救いの御業を行われた。「ガリラヤの町々で主イエスがなされた奇跡は、神の愛によるご支配と記された巨大な掲示板のようなものです。しかしそれでも、『町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。(20節)』というのです。」とT牧師は続けられた。 「町々が悔い改め…」と町が擬人化されて、奇妙な感じがする。普通に考えると、個々の人が主イエスに出会い、癒されていくのだから、個人が悔い改めをしたかどうかが問題だと思うのだけれど、ここでは民の共同体に悔い改めがなかったと叱られることになる。 T牧師は「主イエスの救いは個人的なことに留まらず、その人が属する共同体の救いへと展開してゆくのです。また『悔い改め』は、個人が後悔の念に浸ることではなく、主の招きに応じて生活全体を主イエスへと方向転換することです。だから悔い改めは、自分が罪人であることを認めて、そのような己を主に差し出すことなのです。」と説いて下さった。 主イエスが名指しして叱られるコラジン、ベトサダ、カファルナウムは、ガリラヤ湖周辺の町であった。「お前は不幸だ」と主イエスは嘆かれる。それは、誰かの前で愚痴を零すようなものではなく、神の御前で嘆かれ、町々の運命を神の裁きの下でご覧になっているということである。 「カファルナウム、お前は、天にまで上げられると思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。…(23節)」繁栄する町カファルナウムが、主イエスの目には慢心の町、裁きを待つ町でしかなかった。 「陰府」と聞くと、地獄の釜や針の山なんかを想像するが、そうではなく「神との交わりが完全に断たれてしまうこと」である。旧約に登場するソドムは、神に滅ぼされた町として蔑みの対象であった。しかし、今、そのソドムさえ三つの町よりも「まだ軽い罰で済む」と嘆かれる。それほどに町は主イエスの前に傲慢でであった。 ところで、私たちの国はこの三つの町と似ていないだろうか。 日曜日はお近くの教会でhttp://komatsu.church/index2.html礼拝を、どなたでもどうぞ、お待ちしています。
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