1960年(昭和35年)に、ライシャワー博士はハーヴァード燕京研究所長として夫人のハルとともに日本を訪問した。その際の記述を以下に引用する。 ************ 1956年に見たとき以来めざましい経済発展をとげ、もはや戦中から戦後にかけての疲弊の跡をとどめなかった。「日本の奇跡」は、すでに始まっていた。 私は戦後日本に対する自分の解釈を修正し、憂うべきは日本の経済よりも政治面だと思わざるを得なかった。日本は5月から6月にかけて起った日米安全保障条約の改定をめぐる大騒動のあと、まだ立ち直っていないように見えた。いわゆる安保闘争は、戦後日本の政治と日米関係にとって最大の危機であった。 危機の底には深い、拡がりゆく政治的ギャップがあった。 右には官僚と大企業と戦前の大政党からの残存勢力から成り、戦前の政党が地盤とした農村や中小都市の有権者に支持される戦前の体制の残党がいた。そうした政党や大企業の大部分は、戦前はリベラル寄りだったが、軍部が一掃され戦時指導者が追放された結果、保守勢力になった。かつて彼らが占めていた左寄りの地位を奪ったのは、共産主義運動である。日本の共産主義は、1920年代から30年代にかけてインテリと組織労働者の主導により、主に大都市居住民や学生の間に拡がった。軍国主義時代は弾圧されたが、戦後の新しい左翼は戦争のあいだ軍部を恐れて無為だったオールド・リベラルを深く憎み、旧体制の残存者が日本を再び戦前に戻すのを恐れていた。 戦後まもなくは混乱期でもあり、アメリカに対する日本人の態度も一定しなかった。保守勢力は、経済や防衛面での対米依存の必要性をよく認識し、アメリカが与える改革の大部分を「望ましくないものもあるが仕方ない」といった態度で受け入れたが、アメリカの対日政策にはむしろ批判的であり、アメリカ人の独断専行を怒り日本社会の破壊を嘆いたのは彼らだった。これに対して“進歩”派を自称する左翼はアメリカ的改革を大歓迎し、もっと徹底的な改革をと叫んだものだった。 ところが占領末期になってこの図式は逆転し、対米観が入れ替わってしまった。左翼は、アメリカが社会主義のはるか手前で日本改造をストップし、経済復興に重点を移したことに失望した。そして冷戦が徐々にヨーロッパから日本に広がり、1950年にアメリカが朝鮮半島で日本左翼の崇める共産国家を敵とするに及んで、それはアメリカ人への憎悪に変わった。1952年の講和条約が日本に多数の米軍基地を残す形で結ばれると、彼らはアメリカのことを日本を巻き込む戦争挑発者と見、対するソ連や中国を“平和勢力”視するようになった。 左右の対立は、1955年に講和条約をめぐって分裂していた左右両社会党が合同し、一方に自由民主党が誕生することによって、ますます深まった。左翼は社会主義体制の確立と米軍基地撤廃を要求し、右派は社会・経済改革を続けることにより経済発展を優先せよと主張し、米軍基地の存続を含む日米防衛協力は不可分と考えるようになった。経済のほうはめざましく成長し、左翼もあまり批判の余地がなかったが、米軍基地と日米防衛協力によって日本が冷戦に巻き込まれないかという危惧は自民党の弱味であり、左翼は巧みにその点を狙って攻撃を集中した。 こうした状況の中で、岸信介首相は日米安保条約の中で最も不適切な部分を改定することでアメリカ側と合意した。1960年1月に調印された新安保条約によりアメリカは「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与」するため、朝鮮戦争のころのように日本国内の基地を思いのままに使うことはできなくなったし、日本政府の要請に応じて米軍が「日本国における大規模の内乱及び騒擾を鎮圧」(いずれも旧安保第一条)することもできなくなった。このような改定は、左翼の側から見ても“改正”であるはずだが、民社党を除く野党は旧安保が占領時代の押しつけだったのに反し新安保には日本政府も責任があるとして反対を宣言した。 自民党が衆議院の議席の61%を占めていたから新条約の批准は決まっていたが、改定をめぐる紛争は外的要因により危機的な状況に立ち至った。要因のうち最大のものは、6月19日に予定されていたアイゼンハワー大統領の到着である。岸は、その日までに参議院での審議にかかわらず新安保を自然発効させようと思ったのか、5月19日に手続き的にも無理がある“強行採決”によって条約を衆議院で可決させてしまった。この、“非民主的”行動と日本の政治に対するアメリカの“干渉”によって反対勢力の怒りは爆発した。大規模なデモは、とくに東京において騒乱と化し、何十万もの人が街に出て、岸とアイク訪日と安保に対する反対を叫んだ。日本政府はやむなく大統領の日程をキャンセルしたが、6月19日に新安保が成立してしまうと騒動は急速にやんだ。岸は7月に退陣に追い込まれたが、11月の総選挙では自民党はほぼ前回通りの得票率を挙げ、議席はかえって微増した。しかし5月から6月にかけ日本を襲った政治的混乱は、日本とアメリカの対日信頼感を大きく損なわずにはおかなかった。 日本へと旅立つ直前、クオリティ季刊誌「フォーリン・アフェアーズ」が安保騒動についての寄稿を求めて来たので、私は実地に日本を見てから書くと約束した。だから7月の大部分を、私は日本でいろいろな人とのインタビューに費やし、それを参考に「損なわれた対話」という短い論文を書いた。実は、私の言うような対話は、それまでにも存在しなかったのだが。 私は論文の大半を使って、日本の保守と各野党とアメリカ政府の間に状況把握において食い違いのあることを指摘した。日本の左翼は、アメリカの国際政策と世界情勢について全く見当外れの誤解をし、保守派がアメリカの黙認のもとに日本を戦前の軍国主義的で民主主義なき状態に戻すのではないかと恐れていた。保守は保守で、左翼は現実無視で、ありていに言えば跳っ返りの患者と軽蔑している。さらにアメリカは、日本の指導者層を臆病だがアメリカに忠実なところが取り柄と甘く見て、その協力を当然視し、左派の意見は顧慮するに足りずと思っていた。私の主たる結論は、安保騒動は、アメリカと日本の反政府勢力とのコミュニケーションの不足にあるというのだった。私は相互理解におけるギャップが「実に戦慄すべき域」に達していると書き、日本社会のあらゆる層との対話を持つことこそアメリカにとって急務であると指摘した。 「フォーリン・アフェアーズ」10月号に載った論文は、かなりの評判になった。日本側でも注目したらしく、そのころ人気絶頂だった左翼ラジカル派の雑誌「世界」から翻訳を掲載したいと申し入れがあった。東京のアメリカ大使館も論文の批判的なトーンに反応し、大使のダグラス・マッカーサー2世(マッカーサー元帥の甥に当たる)はなかでも私の書いた「5月から6月にかけてのアメリカ政府とアメリカ大使館の驚くべき状況判断の誤りは、われわれと(日本の)反政府勢力との接触がいかに貧弱だったかを物語っている」という個所に不快を感じたらしかった。 私は大使館に呼ばれ、マッカーサー大使は大量の公電を見せながら大使館が「驚くべき状況判断の誤り」を犯していなかったことを力説した。その説明にも一理があったので、私は日本語訳に当たって字句を少しトーン・ダウンすることを承知した。だが私の修正を見た「世界」は驚き、それをアメリカの知識人に対する米政府の“ファッショ的”干渉と解釈したらしかった。
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