第二章(十一)
親子はそう言うと姿を消した。胸が大きく膨らみやっと息を吸うことができた。これは夢でも幻でもない。ガラス戸の向こうを見たがもう親子の姿は見えない。どこに行ったのだろう。どこかに隠れていそうな気がする。ゆっくり後ろを振り返ると翔子が倒れ、お袋たちは、肩を抱き合うようにして俺の顔を見た。その顔を見れば、今、目の前で起きたことが幻覚ではないことがわかる
「だ、大丈夫か?」
お袋が声を震わせながら言った。
「あぁ……」
俺はそれ以上言葉を発することができない。身体が小刻みに震えているのがわかった。
「翔子!」
叔母さんが思い出したように大きな声で呼ぶと、俺の横で倒れている翔子が身体を起こした。愛梨ちゃんが母親に抱きついて泣き出した。何もわからない三歳の子どもにも、怖ろしさは伝わっていたのだろう。
目の前から姿は消えても怖ろしさは消えないし、カーテンを閉めに動くことすらできない。部屋の中にいたムカデはいなくなり、天井からも落ちてこない。だけどそれが幻覚の類でなかったことは、俺に叩き潰されたムカデの数を見ればわかる。俺たちは耳をそばだて、ガラスの向こうを目を皿のようにして見続けた。木の枝が風に揺らされただけで身体がビクリと動き、空気が少し動くだけで反射的に天井を見上げた。目の前から急に姿を消したのは、俺たちを油断させる罠のように思え、時間が経つほどに怖ろしさが増していった。
東の空が明るくなりかけると、ようやく身体の力を少し緩めることができた。明るくなれば大丈夫とは言い切れないが、暗闇を見続ける恐怖とは比べものにならない。それでも誰も動くことができず、縁側に近づくこともできない。
「夜が明けた。もう大丈夫みたいや」
叔母さんはそう言うと、部屋をゆっくり見廻し、リビングに続くドアを小さく開けた。ドアに挟まれたカマドウマの死骸が落ちたが、それ以外には何もいない。まるで悪夢でも見ていたようだ。だけど油断はできない。俺たちははっきりこの目で見た。荻野家を悩ませてきた呪いが正体を見せたのだ。あのガラス戸から入ってこなかったのは、盛り塩とお札に力があったのかも知れないが、このまま引き下がるはずがない。
「陽子! 陽子はどこへ行ったんや!」
お袋が思い出したように名前を呼び、ガラス戸から外を探した。
「陽子が見えん、どこにおるんや、陽子!」
そう言いながらフラフラと玄関に向かって行く。外に出るつもりなのかも知れない。俺はガラス戸から、明るくなった外を確かめた。念のためリビングのカーテンの隙間から裏山を見るとまだ暗い。時計を見ると四時前だ。
「出るな! まだ夜だ!」
俺が玄関に向かって叫ぶのと同時に鍵の開く音がした。
「閉めろ!」
玄関に走ると、ドアーが風に吹かれてゆっくり開いていく。その先にお袋の姿は見えない。ドアにはべっとり血が付いている。玄関の向こうはまだ暗く、飛び出そうとした俺を叔母さんが必死に止めてドアを閉めた。俺はドアの前で崩れるように座り込んだ。ドアに付いた血がゆっくり垂れている。
「ギャー」
翔子の声だ。俺の身体は弾かれたように動き、縁側の八畳間へ走った。明るいはずのガラス戸の向こうは暗く、その暗闇の中にあの女が中空に浮かび薄ら笑いを浮かべている。手にはお袋の首をぶら下げている。俺はまともに見ることができず大声を張り上げ、その場にうずくまった。怒りと怖ろしさで身体がガタガタ震えているのがわかる。誰かが俺の背中にしがみついた。喉がヒューヒュー音を立てている。見たくない。幻であって欲しい。嘘だ。全部嘘に違いない。何かの見間違いだ。お袋は絶対生きている。