「おや亀の旦那、お久しぶりで。これから洞窟をお使いになるので?」
婆さんの風貌でありますが、しこめ姐さんの声は意外に若々しいのでありました。
「そうだ。父老から許可は貰ってある」
亀屋技官がここでも横柄な口の利き方をするのでありました。
「亀の旦那が今からちょっかいを出しに、娑婆にお出かけになるので?」
「いや、俺じゃなくて、この横に立っている亡者さんが娑婆に逆戻るんだよ」
亀屋技官が拙生の腰に掌を添えてやんわり押して、拙生をしこめ姐さんの面前に少しばかり押し遣るのでありました。
「へいどうも。洞窟を使わせて貰うのは私です」
前に出された拙生は、愛想笑いながら姐さんにお辞儀するのでありました。
「おやまあ、鬼さんじゃなくて、亡者さんがこの洞窟を使うのは珍しいねえ。まあ、この前にもあったけどね、同じような事がさあ」
このしこめ姐さんの、鬼さん、と云う言葉が拙生には、落語とかに出てくる色街の姐さんの、お兄さん、と云う云い方に聞こえて仕舞うのでありました。しこめ姐さんの風貌に目を瞑ればなかなか色っぽい声と云い草でありますが、こんな事はどうでも宜しいですな。
「色々と経緯がありまして、逆戻る事になった次第で」
「ああそうかい。折角長旅をしてこっちの世に来たって云うのに、またすぐ戻るなんざご苦労さんなこったねえ。それで、ひょっとしたらと思うから訊くけどさ、娑婆交流協会の大酒呑太郎の旦那から、手紙か何か預かってこなかったかい?」
拙生はそう訊かれて、思わず手を上着のポケットに遣ろうとするのでありましたが、その動作をすんでのところで中止するのでありました。
「いや、別に何も預かっては。・・・」
「ああそうかい。娑婆に戻りたい一心で、しらばくれているんじゃないだろうね?」
「いや別に、そんな事は。・・・」
拙生は内心大いに狼狽えるのでありましたが、何とか無表情に、声も裏返らない平静な感じでそう云ってトボけるのでありました。
「ふうん、そう? ま、それならそれで良いけどさ」
しこめ姐さんが疑わしげな目で拙生を見上げるのでありました。拙生はたじろぎを隠して、姐さんの視線から微妙に拙生の目を脇に避難させるのでありました。しかし、しこめ姐さんからの追及は、それ以上は特にないのでありました。
「じゃあ亡者さん、その岩の隙間から奥に進んでください」
亀屋技官がまた拙生の腰を押すのでありました。
「判りました。色々有難うございました」
拙生は亀屋技官に一礼するのでありました。頭を起こす時に洞窟の外を見遣ると、補佐官筆頭と逸茂厳記氏、それに発羅津玄喜氏が横一列に並んで、心配そうにこちらの様子を窺っているのでありました。この三鬼の目があるから、しこめ姐さんもしつこく大酒呑太郎氏の書状の件を追及出来ずに、意外にあっさりと引き下がったのでありましょうか。
(続)
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