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コリントの信徒への手紙1 15章50~58節

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<兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。(50.51節)> 「パウロは、復活の体について語る時に生じるかもしれない大きな誤解を、あらかじめ防ごうとします。コリントの人々の考えは、復活は地上の体そのものの再生とみなすからです。地上の体は肉と血です。それは、決して神の国に入り得ないのです。」と河野牧師は書き出される。 ギリシャ的な思想は、人間は肉体と霊魂の二つから成り立っており、このふたつは二分される別のものであり、死において肉体は消滅し、霊魂は残ると考えられていた。パウロはそれを否定し、それらは分けられず、一つの存在であり、そして死によってそれらは消滅してしまうと説いた。血と肉は朽ち、朽ちないものに変わることはなく、すべてから断絶されたものとなる。それが死だと。 パウロはこれを奥義だと言った。奥義とは人間の目では理解することができず、信仰によってのみ受け取ることのできる真理である。 彼はキリストそのものが神の奥義だと言い「それは、彼らが心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るためである。キリストの内には、知恵と知識との宝が、一切隠されている。(2章)」と説いている。 神の子であるキリストが人となって地上に来られたこと、人の罪の贖いのために十字架に死なれたこと、三日目に復活されたこと、これらは人の知恵や理性では理解できない。それは人の歴史の中で、ただ一度のことであり、人の理解の範囲を超えたことだからである。これは信仰によって、聖霊を受けて与えられる理解であり、奥義なのである。と解説書は記している。 死に対して不安と恐れを持つのは、自分が生きている間に頼みとしていたもの、功績や見識が通用せず無力なものになり、親子や夫婦の愛情、周りの人々との暖かい交流さえ無力とされるからだろうか。これまで支えとなっていた肉体はかえって苦痛の源となり、愛するものと一方的に断ち切られてしまい、愛情は大きな悲しみにかわる。死はこれらのものの無力さを露わにする。 人の一生はそのようなものだと悟り諦観すればいいのかもしれない。けれど、そんなに容易いものではない。不安の根源は別にある。それは神を押しのけて自を頼みとして生きてきた人間が、絶対的な神の前に立たされるとき、それが死の時なのである。自分の無力さを知らされ、神の前に立つとき、ここに最も大きな不安の根源があるのではないだろうか。 死んでからの事を恐れるのはイスラエルだけではない。幼いころ、地蔵盆で地獄絵図を見た覚えがある。閻魔さんの前で裁きを受け、地獄の釜で茹でられたり、針の山を登ったり、舌を抜かれる亡者たちの絵であった。「嘘ついたら、こんなことになる」と言われ怯えたことを覚えている。 「クリスチャンにとって、死の時は最後ではない。死の姿はすべてに敗れた姿ではない。死が最後の勝利者でないことを宣言して、死を迎えることができるのです。」と解説書は結んでいる。 「愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。(58節)」とパウロは、死者の復活を説く15章を結んでいる。 日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。


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