<あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は教会の中に、いろいろな人をお立てになりました。(27.28節)> 「12章では、教会が互いに与えられた霊的な賜物によって、仕え合う場所なのだということが教えられていきます。」と河野牧師は書き出される。そして「『次のことはぜひ知ってもらいたい(1節)』という言葉はパウロの切なる思いの表れです。」と続けられる。 第一に、人は生まれながらの状態では偶像礼拝に走らざるを得ないということをパウロは指摘する。そして、第二にそのような、生まれながらの人が、偶像を捨てて生ける神を信じるようになるのは、聖霊の力によると言い、私たちが、イエス・キリストを自分の主と告白するに至らせるのは、自分の力ではなく、その人の内に働く聖霊の力であると告げている。 4節以降では神が与えて下さる夫々の「賜物」について語られる。与えられている「賜物」は、色々な種類があり、それは同じ一つの目的のために与えられている。一人一人に与えられている賜物は、その人を偉くするためのものではなく「全体の益になるためです。(7節)」とパウロは言う。 優秀なスポーツ選手が「天性の才能によって…」と紹介されたりする。そして、彼の活躍によって国中が活気づきその事をもって、それが「全体の益」の意味かと思ってしまうが、そうではない。私たちが与えられる賜物が、神のご計画が成就するための道具として用いられるということだ。 「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。(13節)」 教会は、霊的な集まりで、一つの神の一つの霊が支配して、すべて相手を生かすことによって、自分も生かされていることを知る。み言葉を解き明かす牧師の説教は、聖日に集まった年齢も、職業も、社会的地位も様々な会衆によって、その数に関わらず、霊的になり生きたものになる。 教会に属する者はその能力や適性に応じてそれぞれ働きますが、それを定めたのは人間ではなく神ご自身です。「それゆえ、教会の中では、自分を高くして他人を軽蔑することも、また、劣等感をもって自らを卑下することも決してあってはならないのです。」と河野牧師は警告される。 教会はキリストのみ体として、一つの体としてそれぞれが有機的につながっている、たがいに兄弟姉妹とつながり、それぞれの持てる賜物をもって仕え合う。その中で、最も弱い部分こそ、神はより尊んで、それを用いられ、調和を図られる。それは、世の組織とは全く異なるものである。 私たちの教会は会堂、その他の部屋や洗面所、庭掃除すべて教会員が当番ですることになっている。最近マンションに越されたOさんは、平日にも教会に来て一人で庭の手入れをされる。けれど、庭の様子がカラフルな彼女好みになってしまい、苦情も出るようになって困っている。 ポケットを探っても何もない。自分が頂いた賜物に気づかない。そのような者は、兄弟姉妹の呼びかけにできるだけ従うのが良い。自分には気づかない賜物が兄弟姉妹によって見つけ出されることがあるかもしれないから。そう思えてきた。 日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。
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