![岩波茂雄文集 第1巻 1898-1935年 岩波茂雄文集 第1巻 1898-1935年]()
岩波茂雄(1881-1946)は岩波書店・創業者。「この文集は岩波茂雄の著作をまとめ、あらためて近代日本の文化史、出版史、文学史を考えるときに欠かすことのできない資料集として編まれたもの」。
「第1巻には、1898(明治31)年から1935(昭和10)年までに書かれたものを収録した。岩波茂雄にとって、書店創業前から出版活動の開始、定着をへて、さまざまな全集、講座、そして岩波文庫の創刊などにより大きく飛躍をとげ、やがて、言論・出版統制に直面する時期にあたる。民間の右翼思想家であった蓑田胸喜によって岩波茂雄が攻撃の対象となるのもこの最後の時期である。蓑田への反論を試みたのち、岩波は数ヶ月に及ぶ海外渡航の旅に出る。そうした紀行の記録が本巻の終盤に収められている。帰国ののち、岩波茂雄ならびに岩波書店はより厳しい時代をへて、敗戦を迎えることになる」。
「岩波の死は、1946(昭和21)年4月のことであるから、本巻が出版人の最盛期をほぼカバーしている。言論の自由の失われる直前まで、岩波茂雄が書いた出版人としてのマニフェストや広告、あるいはさりげないエッセイや回想、アンケートへの回答、挨拶文などがここにある。厳密に岩波茂雄の文章といっていいかどうか迷うものもある。岩波書店のブレーンとなった安倍能生や三木清による修正なども加えられているからだ。しかし、それらもふくめて岩波茂雄の名で発表された言葉を集めることにした」。(以上、紅野謙介氏の巻末にある「解説 『第三帝国』の出版人」から)。
本巻には176の文章が収められている。長短さまざまである。書生として置いて欲しい旨をしたためた「杉浦重剛先生に奉る書」を巻頭に、36に「 岩波文庫発刊に際して」が掲載されている。巻末に「解題」が用意され、初出誌の紹介や補足的説明がなされる。ちなみに、「岩波文庫創刊以来、巻末に置かれている『読書子に寄すーー岩波文庫発刊に際してーー』は、本資料に加筆修正したものである。なお文庫掲載時の書名は『岩波茂雄』に変更されている」とある。元の草稿は三木清が書き、それに加筆して「岩波書店」名義で『思想』第69号に掲載されたものが、後に文庫巻末に掲載されたというわけだ。「解題」には、三木清のエピソードも記されている。
岩波茂雄の「激情家」の側面も示され、売られた喧嘩を買っていく様子や、そのやりとりから、時代の相が見て取れる。衆議院議員に立候補するよう勧められたのを断る誠意のこもった長い文章には、政友会、民政党、原敬、田中義一などの名があげられ、岩波の政治に期するところ、好き嫌いを通して、当時の政情を知ることができる。「私も政界の腐敗堕落を痛憤する国民の一人であります」という言葉もある。
一見、雑然とした文章の集合に過ぎないようにも思えるが、その実今日につながる出版の淵源を知る貴重な記録になっていると思う。
![岩波文庫解説総目録 1927〜1996 全3冊セット (岩波文庫) 岩波文庫解説総目録 1927〜1996 全3冊セット (岩波文庫)]()
以下「解説 『第三帝国』の出版人」からの引用(p419-420)
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それにしても、闘いのピークはやはり1930年代における学術・言論の自由をめぐる論議においてであろう。瀧川事件に際して、岩波は『東京朝日新聞』の「鉄筆欄」に投書した。〈本書掲載103、104〉は、こうした怒りの言説をどのようにして当時の新聞に載せていくか、そしてその結果としての拒絶がどのようなかたちで示されたかを伝えた貴重な資料となっている。このとき投書を受けた『東京朝日新聞』は、その寄稿者がすでにこの欄の長年の執筆者であることを承知の上で、不採用理由を並べた機械的な印刷ハガキの上に、「インフォメーションが乏しい為」という新たな理由を書き加えて掲載を拒否した。
たしかに「瀧川氏の学説が文部当局の云うが如く国家に有害なるものとしたならば、京大法学部の閉鎖は愚か、これに和する全ての大学の全滅も厭ふべきでない。又法学部の主張が是なりとすれば文相の即時辞職は勿論、内閣数次の更迭も避くべきでない」とは、激烈な批判ではある。しかし、これを「インフォメーションが乏しい為」として避ける『東京朝日新聞』は、このときもはや新聞メディアとして亡びていたと言うほかない。「どうかこれにお懲りなく重ねて御寄稿の程願います」とうハガキの結びほど、空虚な文言はない。言論弾圧は、実はそれに迎合したものにもっとも頽廃した言葉を吐かせることになる。新聞『日本』について「威武に屈せず権勢に諛らず第一義に立脚して民衆指導の精神を忘れなかった」(「所感」1933年3月)という回想が記されるのも、まさに同年のことであった。
京大総長に宛てた抗議文の複数の草稿も、瀧川幸辰という法学者の救済を目指すだけでなく、まさに同調圧力にあっけなく屈していくアカデミズムの住人たちへの怒りに貫かれている。しかし、そうした抗議も効果なく、追いつめられていく経緯が「〔蓑田胸喜宛書簡の草稿〕」(1934年10月)から見えてくる。この年、岩波は山口県教育会編纂になる『吉田松陰全集』や筧克彦『神ながらの道』を刊行するが、『原理日本』10月号において蓑田胸喜から「岩波茂雄氏の驕慢反逆思想」と題して批判を浴びる。これに対する反応がこの草稿だが、松陰の全集を出すのもマルクスの『資本論』を出すのも広大無辺な「日本精神」によると説き、「節操」の一貫性を語る。しかし、一高時代の知友で、この時期、蓑田と組んでいた三井甲之の名を出し、「御支障なくば三人一度会談する機を得たきもの」と申し入れている。ここでも岩波茂雄は人間としての「徳」をもって和らげようとしたのだが、その狙いはまったく外れることとなった。逆にその身ぶりが原理主義者の憤激を買ってしまう。
1935(昭和10)年5月から12月に及ぶ長期の「外遊」は、岩波書店を守るために、ついつい発信してしまう岩波茂雄を隔離する一時的な海外避難だったと言うべきかもしれない。この年の2月には美濃部達吉を攻撃する天皇機関説事件が国会で始まっている。美濃部の著書を発禁とした政府の「国体明徴声明」が出されるのが8月のことである。ただ、これによって、岩波はインド洋から中東、スエズをへて東欧、北欧、ソビエト・ロシア、ドイツ、イタリア、フランス、大西洋を越えて北米各地を回るという世界旅行を体験する。紀行の大半は下書きやメモではあるものの、ヒトラー政権下のドイツ、スターリン独裁下のソ連への感想は、鋭い知見がちりばめられている。岩波書店としては、茂雄の関心を外に向けることで、風圧をいかに耐えしのぶか、その方途に思いをめぐらしていたのだろう。もはや岩波茂雄の反駁が届く状況ではなくなっていたのである。