<むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。(27節)> パウロは「わたしの目的は一人でも多くの者をキリストのために自由にすることだ。福音のためなら何でもする。」と言った。その目的のためなら、競技者が賞を得るために節制するように、自分の体を打ちたたいて服従させると言った。 オリンピアで行われたような競技大会は、各地でなされていた。パレスチやデルフィでも、コリントのイスムスでも開催されていた。それは神々に奉納される祭典としてなされたのである。イスムスでは2年ごとに、オリンピアでは4年ごとに開かれていた。競技には競争、高跳び、円盤投げ、レスリングなどがあった。勝利者には新鮮な月桂樹やオリーブでできた冠が与えられた。 競技大会の勝利者は一人であるが、キリスト者の信仰の勝利者は一人ではないが、賞を得るような競争をせよとパウロは言った。賞として与えられるのは朽ちる木の葉の冠でなく、朽ちない冠であると言った。「わたしはすぐに来る。あなたの栄冠を誰にも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。(黙示録3章)」 競技者は目標を目指して進む。そのための苦しい訓練はすべて勝利者になるためである。そのために「やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」と言った。ボクサーが相手を見定めてこぶしを出すように、キリスト者は目標に向かって進むのである。すなわち朽ちない冠を得るためにと言った。 パウロは福音を信じ、福音のために労してきた。それゆえ「自分の体をうちたたいて服従させる」と言った。「打ちたたく」というのは、原語では「眼を黒ずませる。眼のふちに黒あざを作る」という意味を持ち「服従させる」というのは、奴隷にさせるという意味である。 自分自身を自制する。競技者の自己訓練は、食事にせよ肉体の鍛錬にせよ、自分を害するものを除き、益になることを取り入れる。しかし、パウロがいう自制はキリスト者が禁欲主義になることではない。「自制は御霊の実である。」と解説書は説き、ガラテヤ書を引用した。 「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスの者となった人たちは、肉や欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。(ガラテヤ書5章)」 「聖書が語る救いは主キリストとの人格的な関係抜きには正しく理解できません。私たちは途中で『失格』することなく、永遠の命に復活することを信じてよいのです。しかし、それは機械的な法則ではなく、主が私たちを憐れんでお見捨てにならないからです。」と青木牧師は説かれる。 稀勢の里には感心した。勝利者になるためにはあんな風にならなければ・・・。優勝は彼の精進の賜物だと誰もがほめている。彼のひたむきな姿は、周りの動きに左右されたり、ましてや「忖度」して・・・なんて人たちにどう映っているのだろうか。 主がこの国の貧しい為政者を憐れみ、導いて下さいますように、あなたの義と平和をこの国にもたらせて下さいますようにと、もっと篤く祈らなければならない。 レントに入りました。イースターはお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。
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