<神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。(3節)> 「コリント教会の大きな問題の一つは、教会がいくつにも分裂し、賜物の優劣を競い合っていたことです。にもかかわらずパウロは、彼らが『あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされて』いることを『いつもわたしの神に感謝しています』と言います。」と青木牧師は書き出される。 コリント教会の信徒にとって「誇りと争いの種」であった「賜物」が、パウロには「神がコリント教会の信徒たちに働いておられることの現れ」と見えていた。 ギリシャ最大の港町コリントは60万人の人口を持つ大都市であり、様々な国々との交易によって豊かな経済の下、文化が発展していた。教会の中には、異邦人であったがパウロの導きで主イエスを仰ぐ信仰を持った者、選民イスラエルの血を引く誇り高いユダヤ人、パウロの後から来たアポロの説教によって教会に導かれたものがいた。 わたしたちの教会も様々な者の群れである。父母の代からのクリスチャン、欧米の文化にひかれてのクリスチャン、イスラエルの歴史に興味を持つクリスチャンもいるし、挫折の中、神を求めている者もいる。それだから、同じ説教を聞いているのだけれど、あとで話してみると、全く違う受け取り方をしていて、争いとまではいかないけれど「彼は間違っている」と決めつける時がある。 お互いが争って、キリストの福音を忘れることがあってはならない。パウロは教会の主は誰かと問いかける。「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか、あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。(13節)」 Iさんが不思議がるように、残念ながらキリスト教はたくさんの「派」に分かれてしまっている。これでは、この世に真実を求める力が分散したままだとは思うけれど、欧州の教会堂を観光したり、バチカンの様子をテレビで見たりすると、自分たちの教会とは違うような気がしてならない。 しかし、そのような者にパウロは「あなた方が党派を作って争うために教会が立てられたのですか。教会は何のために立てられたのかを思い起こしなさい。」と訴える。 「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。(17節)」パウロの時代も「何々先生からわたしは洗礼を受けた」と言うことを誇りにする人があったらしい。 「パウロは問題の本質を『キリストの十字架がむなしいものになって』いることに見ていました。『キリストの十字架』は私どもが罪人に過ぎないことを明らかにします。その罪人を神は愛し救って下さったことを告げます。『知恵』は誇りと蔑みを生み、『キリストの十字架』は誇りを砕き、自分と他人を共に愛し尊ぶように導きます。」と青木牧師は説かれる。 キリスト教とイスラム教はユダヤ教から分かれたものだ。分かれなければ、平和が保たれていただろうか。それはよくわからないが、分かれることも神のご計画ととらえるならば、平和への道が開くのかもしれない。 昨日の祈祷会の帰り道Hさんが、映画「沈黙」を見たと言った。すると90歳のKさんが「あれは長崎、カトリックの話だ」と言った。プロテスタントの宣教は横浜から始まったんだと。 日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。
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