<どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか。それはことごとく陰府に落ちた。すべては塵の上に横たわっている。(15.16節)> ヨブの苦しみは想像できず、その苦しみを共用することは到底できない。しかし、このたびの大災害でも思うことだが、罪のない子供が多く津波にのまれてしまった。 「どうして、あの子たちが・・・」神のお考えがわからない。原因がはっきりしている苦しみは罰として受け止めることができ、また試練としても堪えることができるかもしれない。けれども、ヨブは人間としての正しさをもって生きていた人であり、その苦しみは試練の域を超えるものであった。 彼の苦しみは理由がなかった。原因も目的も分からない苦しみは無意味なものであった。無意味な苦しみは生を無意味なものにし、生きている意味を見いだせずヨブは「わたしには墓があるばかり」と死の招きに応じるしかないと言った。 しかし、絶望の中にあって「あなた自ら保証人となってください。他の誰が、わたしの味方をしてくれるでしょう」と裁きの場に引き出された時、主が保証人になることを約束してくださいと祈った。 自分が自分自身の生きてきた意味が分からなくなり、友人たちも全く理解できず、かえって彼を苦しめている全く孤立無援な中、「あなたならヨブの人生の価値を保証して下さるでしょう、あなたがヨブをお造りになったのですから」と彼は必死に主にすがった。 そうすれば、「どんなに辛くてもわたしはあなたの保証の言葉を信じて生きて行くことができます。」と応えてくださらない主に向かって彼は全身全霊で訴えた。 「厳しい状況下で『どこになお、わたしの希望があるのか』とヨブが言い得たことは、彼が死の中に希望がないことを認め、死を願う気持ちにひとまずストップをかけたことを示しています。この問い自体が暗闇の中のかすかな光としてヨブを突き動かしているのです。」と井上牧師は結ばれる。
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