まともな書評記事を書いてみるのは、ほぼ1年ぶりのことです。 その間は、『まどか☆マギカ』の影響からアニメ視聴に多くの時間を使っていましたが、そろそろ何らかの“現代アニメ観”が得られたように思うので、書評を書く時間と気持ちの余裕ができたわけです。
さて、最初に書くのは『マンガと児童文学の「あいだ」』からです。 今の私の気分にもどことなくつながりがある一方、それほど大げさに論評する類の本でもないので、まあまあ適切な選定でしょう。 著者の竹内オサムさんは、教育学出身のマンガ批評家で、児童文学研究者でもあるそうです。 どちらかと言えばマンガ界の立場から、児童文学とマンガの比較等を試みていますが、そのいずれにも停滞感を持ち、全く新しい外部からの刺激を待望している、というのが本書(1989年発行)の結論となるでしょう。 私が興味を持ったのは、太平洋戦争前後の分野変遷の歴史です。 すなわち、戦前戦中の児童文学の二つの流れ(芸術的・大衆的)が現代の児童文学・マンガにどのように受け継がれていったのかを分析した第2章において、手塚治虫の果たした役割がこれまで思っていたものとは違った風に解説されていた部分です。 はっきり言えば、少なくとも1950年代の少年漫画黎明期にとっては、手塚治虫からの影響があまりなかった、と(やや遠まわしに)書かれているのです。 戦中までの大衆的児童文学の封建的な思想やテーマは、戦後の一時期の「絵物語」を挟んで1950年代の少年漫画に引き継がれた、とのこと。 手塚治虫は、幅広い作品展開においては戦中までの大衆的児童文学をそのまま置き換えて「マンガ」という分野を確立したけれども、思想やテーマについてみればマンガの歴史的出発点ではなかった、というわけです。 後半で様々に論じられている“(マンガの)名作論”については、興味を持って読み進たにも関わらず、いまひとつ印象に残りませんでした。 本書が、マンガ=大衆的(・児童文学=教育的)という図式に良くも悪くも捉われ過ぎているからだと思います。 ここで私が思い浮かべているのは、例えば『風と木の詩』。 教育的でも大衆的でもない「名作」があって、それこそが日本のマンガやアニメの特別な価値につながっているように思うのです。