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ペトロの手紙Ⅱ 2章17~22節

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<義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのために良かったであろうに。(21節)> 「不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。・・・飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲に溺れ、呪いの子になっています。」と偽預言者について語られ、「彼らは、干上がった泉、嵐に吹き荒れる霧であって、彼らには深い闇が用意されているのです。」と偽預言者の末路が語られる。 エレミヤ書14章でも「ユダは渇き、町々の城門は衰える。人々は地に伏して嘆き、エルサレムは叫びをあげる。貴族は水を求めて、召使を送る。彼らが貯水池に来ても、水がないので、空の水がめを持ち、失望して、頭を覆って帰る。…」とその惨状が記される。 そして続いて「主はこの民についてこう言われる。『彼らは彷徨うことを好み、足を慎もうとしない』主は彼らを喜ばれず、今や、その罪に御心を止め、咎を罰せられる。」と記され、主は預言者エレミヤに「この民のために祈り、幸いを求めてはならない。…わたしは彼らの叫びを聞かない。…彼らを滅ぼしつくす。」と告げられる。 「折角、キリストに対する信仰告白をして、正しい信仰の道を歩む光栄が与えられても、信仰の戦いは容易ではないのです。わたしたちの教会はそれらの誘惑をはねつけ、若い人たちに信仰の継承をなしているでしょうか。」と西橋牧師は説かれる。 主イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われた。すると、彼らは「自分たちは今まで誰かの奴隷になったことはない」と言った。主イエスは「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」と答えられた。 難しい問答だが、卑近な例を取ってみると、お金持ちになることを人生の目標に置くと、お金のあるなしによってすべてを判断してしまう。容貌こそ、頭の良さこそ、健康こそ、家系こそ、友人こそと思う者は、その物差しで自分自身をも測り、自分を縛ってしまうことになる。それが奴隷状態と言うことだろうか。 「何にも持っていないけれど、主がすべてをご存じで恵みの道を与えて下さる。」と清く生きようとする者に、偽預者は、神の赦しや恵みを曲解して説き、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑した。彼らに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷であった。彼らは、主の救いと恵みの「真理」を知ろうとはしなかったから。 箴言26章「犬が自分の吐いたものに戻るように、愚か者は自分の愚かさを繰り返す。自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。」と、ぺトロのあげたことわざを「折角、キリストを受け入れた者がまた、不潔なところに戻ってゆくのを見捨てたくないものです。」と西橋牧師は注釈して下さった。 偽預言者が見るからに「サタン」の風体であったなら、すぐに接触を避けることが出来るけれど、そうじゃない時の方が多いだろう。彼自身も自分が偽預言者だと気づいていないのだから。


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