牧村健志/著
出版社名 : PHP研究所
出版年月 : 2016年7月
ISBNコード : 978-4-569-83116-9
税込価格 : 2,700円
頁数・縦 : 419p・19cm
現在、教科書と教育現場にはびこる「土器と墓と卑弥呼の歴史」に物申す。古代日本の「春秋2倍暦仮説」をもとに、『日本書紀』を読み直し、『魏志倭人伝』、『三国史記』、好太王碑などの歴史資料と照らし合わせて日本の古代史を編み直す。
「春秋2倍暦」で年表を作り直すと、神武の大和の国建国は紀元前37年。邪馬台国・卑弥呼はおおよそ景行天皇の時代で、九州北部の豪族ということになるらしい。
欠史八代も実在の大王ということになる。8代の詳細の歴史が伝わっていないのは、まだ文字による記録がなかったことと、その頃は天皇家が大和盆地南端に勢力圏をもつ地方豪族に過ぎなかったから。「纒向三代」の時代に、大和政権の全国展開が始まり、王権としての体制を整えていく。
【目次】
序章 「土器と墓と卑弥呼」の古代史を見直せ―政治思想で偏向された古代史教育
第1章 日本書紀の年表は真実を伝えている―「春秋2倍暦」仮説による古代史の再構築
第2章 神武東征は志ある青年のサクセスストーリー―狭野の尊は弥生社会の申し子
第3章 土木潅漑技術と神道で日本を統一した大和の国―纒向遺跡の発掘で証明された日本書紀の正確さ
第4章 九州の邪馬台国は大和の国に吸収された―300年の論争に終止符を打つ
第5章 みずほの国をつくった「土木大王」仁徳天皇―仁徳天皇陵は古代の巨大ダムである
付章 日本建国の道しるべとしての日本書紀―語り部たちが命を懸けて伝えた物語
【著者】
牧村 健志 (マキムラ タケシ)
1957年奈良県吉野郡に生まれる。奈良県立畝傍高校、京都大学理学部卒業。証券会社に勤務し、証券アナリスト、運用モデル開発、証券情報室長等を歴任。2004年に金融業界向け人材紹介会社設立。日本証券アナリスト協会検定会員。
【抜書】
●春秋2倍暦(p52)
「古代の日本人は1年に2つ齢をとる、という年齢の数え方をしていた」という仮説。
『魏志倭人伝』成立の約100年後、裴松之がつけた注に「倭人は春耕秋収を計(も)って年期となす」とある。『魏略』(現在、散逸して残っていない歴史書)からの引用。
倭人は、春分と秋分あたりを年の区切りとしていた。
『古事記』では、神武以来、第21代雄略まで多くの天皇が100歳越え。 雄略124歳。
『日本書紀』では、雄略が62歳となっている。
『古事記』は語り部の伝承、『日本書紀』は語り部プラス史官の記録。雄略紀が役割交代の時期。
●纒向三代(p72)
崇神(10)、垂仁(11)、景行(12)の三代。新紀年表でAD176~289年。三輪山近くの纒向(奈良県桜井市)に都を営んだ。それまでは大和の地方豪族だったが、 大和の国の勢力圏を全国に拡大させた。
崇神……四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)を東海、北陸、丹波、西道に派遣した。
垂仁……神祇の制度を整え、伊勢神宮を娘の倭姫に創建させ、各国で池や溝などの土木事業を進める。
景行……ヤマトタケルを西国、東国に派遣、勢力圏を九州~東北にまで拡大。
●銅鐸教(p160)
銅鐸について、記紀では全く記録がない。同時代の剣、矛、鏡、玉などは後世大和朝廷にも引き継がれ、記紀にも記録がある。考古学的にも弥生時代とともに忽然と消えている。
銅鐸によって行われていた宗教が、大和の国が布教した新興宗教「原神道」によって駆逐された?
「銅鐸教」……オオクニヌシが広めた宗教。大国主命は、「少彦名命(すくなひこなのみこと)と力を合わせ、心をひとつにして天下を経営(つく)った。また、現世の人民と家畜のために病気治療の方法を定めた。鳥獣や昆虫の災いを祓うためのまじないの法を定めた」。病気治療と虫除けの呪術実行のために銅鐸が使われた?
呪術的・迷信的だった「銅鐸教」に対して、「原神道」は、自然と向かい合う方法(神を祀る)を持ち、1年の稲作のタイムスケジュールを備え、より合理的な稲作技術を提供する新しい「文明」だった。
●纒向大溝(p169)
180年ごろに忽然と現れた纒向遺跡では、まず、幅6m、長さ2600mの運河が作られた。崇神帝の時代に、大溝を掘る土木技術、労働力集約技術があった。この技術をもとに稲作不適地にも水田を開拓し、全国に広めた。
●大和国システム(p182)
大和国システム……池と溝を掘り、稲作適地ではない水のない平地に水田を作る。
〔 生まれた土地の近くにはすでに適地がないから、弥生時代の多くの若者は、自分の適地を求めて遠くへ旅に出た。ところが「大和国」システムを活用すれば、自分の生地の近くにもまだまだ稲作可能な土地はあったのだ。彼らがこれまで選択せざるを得なかった生き方(収奪)とは違う、より安全で確実な選択肢(開墾)を「大和国システム」は提案したのである。
これによって朝日が昇って霜が溶けるがごとくに、弥生時代という殺伐とした、不信と戦いの時代が終わり、農地開拓の時代へと移った。視野の狭い争いの時代に終止符を打ち、新しい時代のシステムを提案した大和の国が全国を統一するに至ったのは、この視点で見れば至極、自然な流れなのである。
そして実はこのことが、今日に至るまでの日本国のあり方の基本的な土台となっている。弥生時代の環濠集落、高地性集落は、集落全体を取り囲む防御壁を持った集落ということで、日本史上ほとんど唯一の例である。〕
●武御雷(p192)
11月になると、八百万の神が出雲に集まる。しかし、鹿島神宮に祀られたタケミカヅチ(武御雷)だけは呼ばれない。タカミムスヒ尊の命を受け、オオクニヌシに国譲りを迫ったから。
●景行帝(p212)
景行帝……九州進出後の御刀媛(みはかしひめ)ら多くの妃を娶り、男女合わせて80人の子を成した。そのほとんどを各地の国々に出向かせ、彼らが諸国の別(わけ)と呼ばれる地方の長(おさ)たちの祖先になった。
ヤマトタケル(小碓皇子)は、双子の弟。兄は大碓皇子。
●前方後円墳(p226)
成務天皇の頃、3世紀末~4世紀初頭に、前方後円墳が巨大化し、かつ日本全国に広がっていった。全国で5,000基ほど確認されている。エジプトのピラミッドは100ほど。
前方後円墳の成り立ち……水田開発で溝と池を掘り、整地をした土を集めることが習慣となり、やがて高位の人物、あるいはその開発を推進した人物の墓となった。
纒向大溝が、一直線に箸墓古墳(日本最初の本格的な前方後円墳)に向かっている。完成したばかりの運河を使って、運河の横に積み上がっている堀土を箸墓のある場所に集めた?
ひとところにまとめて盛り土したのは、地面を掘り返して土地を改良、変化させることへの恐れもあった?
●生目古墳群(p230)
御刀媛の産んだ豊国別皇子(とよくにわけのみこ)は、九州で最も古い宮崎の生目古墳を築いた。
●治水の詔(p319)
仁徳11年(393年)4月、「治水の詔」を出す。同年10月から(農閑期に)難波の堀江に着手。その後、数年かけて茨田(まんだ)の堤を築く。
12年10月、「栗隈(くるくま)の県に大溝(おおうなで)を掘る」。現在の宇治市大久保あたり。北側に宇治川の巨大な遊水地である巨椋池(おぐらいけ。昭和初期に干拓)があった。
13年10月、和珥池(わにのいけ。奈良市の広大寺池?)と横野堤(よこののつつみ)を築く。
14年、猪甘津(いかいのつ)に橋を渡す。また、高津宮から丹比(たじひ。現・羽曳野市)に向かう大道(おおじ)と感玖(かむく)の大溝(うなで)(古市の大溝)を作る。
●高句麗(p326)
高句麗は、BC37年、扶余の王族の朱蒙(チュモン)によって建国された。668年まで存続。
新紀年表で大和の国と同じ年の建国。
●空白の4世紀(p352)
日本の古代史学会では、266年に邪馬台国の壱与が晋に朝貢してから、413年に倭王「讃」が遣使するまでの間を、「空白の4世紀」と称する。シナの史書に「倭」の記述がないため。
景行天皇から仁徳天皇の時代にあたる。『古事記』『日本書紀』、『三国史記』、好太王碑、七支刀などに豊饒な民族の歴史が残されているにもかかわらず。
●仁徳陵(p362)
仁徳陵は灌漑用のダムだった?
仁徳陵の辺りは高台だが、掘れば水が出る。どこからも水がひかれていないのに満々と水をたたえている。周濠を広く深く掘るために盛った土で相当量が充当できた。
緩やかな北の斜面に水を流し、荒蕪地を水田に変えた。
応神陵は、仁徳陵ほどの規模はないが、盛り土の量は多い。水運も兼ねた古市の大溝を掘った大量の土を盛ったため。
(2016/9/24)KG
〈この本の詳細〉
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