<同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。(5節)> 大概の講演会では、聴衆の層、例えば女性であるとか、大学生だとか、福祉の専門家だとか建築関係者とか特定されているので、その人々が望むような講師がよばれ、講演が持たれる。けれども、教会の礼拝は全くターゲットが一定しないし、聴衆が喜ぶような説教をするわけではない。 私たちの教会は、高校生、90歳になられた壮年、赤ちゃん連れの婦人、その他職業も学歴も様々な人々が一堂に会して礼拝を守る。だから、同じ説教を聞いているのだけれど、その生活によって受け止め方が違う。信じる信仰の内容は同じでも、その立場によって信仰生活の仕方は異なる。 人に仕える奴隷の立場に置かれている信仰者に対しての勧めに始まり、次には信仰のある妻が夫に対してどういう生き方をしなければならないかを教え、信仰者の夫に対しても勧めがされる。召使も妻も夫もそれぞれ生活の場において、信仰の戦いがあることを知って、ぺトロは勧告する。 そして「長老たちへの勧め」と続く。長老とは召使のような社会的立場ではなく、また妻や夫のような家庭における関係でもない。これは教会生活への勧めである。どこの社会でも、集団が形成されると、年を重ねた者は経験豊富な者として尊敬され、指導者的立場を担う。しかし、教会の長老はどういう働きをし、教会の仲間たちが彼らにどのようにしなければならないかが語られる。 ぺトロは使徒であり、伝道者であった。その彼が「わたしは長老の一人として・・・」と語り掛けているので、この時代の長老は彼と同じように伝道者として説教を語り、指導の責任を負い、教会員の生活を世話し、ときには家を礼拝場所として開放し、教会がキリストの体となるように奉仕していた。 教会としての組織が確立された今日、私たちの教会は「長老教会」とも呼ばれ、宣教長老の牧師は、福音を宣べ伝え、教えをなす長老であり、それに対して治会長老は、牧師と一緒に教会を治める長老として総会において教会員の3分の2の総意をもって選出される。彼らは2000年前同様、教会がキリストの体となるよう奉仕することに変わりはない。 長老の奉仕は「委ねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。委ねられている人々に対して、権威を振り回してはいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」と具体的に勧める。 復活の主イエスに「わたしを愛しているか」と三度尋ねられ、ぺトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と三度答えた。そして主イエスは「わたしの羊の世話をしなさい」と三度命じられた。(ヨハネ書21章) 羊を牧することはぺトロへの絶対命令であった。 「謙遜を身に着けることは、私たちすべてに語り掛けられていることでしょう。特に長老は、牧師と共に大きな務めを負わされています。日本キリスト教会の憲法には『長老は教師と共に教理を擁護する務めを負い、教会会議において教師と同等の責任を持つ』とあります。」と西橋牧師は説かれる。 若い人たちにも勧めがなされる。ぺトロがこのことをわざわざ記すのは、きっとこの時代も若い人たちが独自の考えで集会を開き、そのために長老たちとの間の悶着が起こっていたのかもしれない。意見を言い合うほど元気な若者がいた昔が羨ましい。 「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる(箴言3章)」。自分を主人にしないで遜ることほど難しいことはない。
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