「瀬をはやみ、岩にせかるる滝川の、・・・」
「おや、ちょっと待ってください。その歌は、・・・」
拙生は途中で声を挟むのでありました。
「・・・からくれなゐに、水くくるとは」
補佐官筆頭は拙生の声を無視して、一気に下の句を詠じるのでありました。詠み上げた後、どうだ、というような顔をして拙生を見るのであります。
「何か、娑婆で聞いた事がある歌ですなあ」
拙生は首を傾げるのでありました。「しかも上の句と下の句が、夫々別の歌のものですよ。その夫々の歌と云うのは両方とも、娑婆の日本の『小倉百人一首』と云う有名な和歌の選集にありましてね。何よりも私としましては、その両方が落語の題材に取り上げられていると云うところで、あちらの世にいる時からよおく馴染んでいた歌なのです」
「あら、そうなのですか?」
補佐官筆頭は無表情に、しれっとそう返すのでありました。
「一つは作者の名前から取って『崇徳院』、もう一つは歌い出しから取って『千早振る』と云う題の、なかなか面白い古典落語です」
拙生の説明を聞き終えてから一拍の間を置いて、補佐官筆頭は俄に掌を打ち鳴らしながら、けたたましく笑い出すのでありました。
「いやいや、どうも済みません。今のは私の冗談と解してください」
補佐官筆頭が一応笑い収めてから、未だ少し笑いの余風が籠った声音で云うのでありました。「今の私の上の句、下の句が夫々違う二つの歌として娑婆に在る事は、実は私も承知しておりますよ。まあ、落語の中にその歌が題材として使われていると云うのは、迂闊ながらちいとも知りませんでしたがね。ま、私も趣味としてこの道の隅っこを、なるべく目立たないように歩く鬼として、娑婆の『小倉百人一首』」は一応、勉強しております」
「ああそうなのですか?」
「貴方様をおちょくるような真似をして、どうも済みません」
補佐官筆頭は先代の林家三平師匠のように、指を額に持っていくのでありました。
「つまり準娑婆省の大酒呑太郎さんみたいな人の悪い、いや違った、鬼の悪い真似を今、私に対してされたと云うわけですね?」
拙生は然程詰問調にならないような、のんびりした口調で訊くのでありました。
「いやもう、全く申しわけありません。私の創った歌をお披露目しようとした直前に、急に、爽快感のあるヤツとか何とか前触れしておいて、こんな碌でもない歌を披露したりしたら、屹度憫笑されると恐れまして、その私の怖気を誤魔化すために竟、咄嗟に悪ふざけみたいな真似をして仕舞ったのです。ご愛嬌として見逃していただければ幸甚です」
補佐官筆頭は大袈裟にお辞儀を繰り返すのでありました。
「ああそうですか。まあ、今までの私へのご対応から観ても、善良この上もない補佐官さんの事でありますから、他愛のない戯れ言だったと云うのは信じる事が出来ます」
「どうも恐れ入ります。慙愧に堪えません。自分で仕出かしておきながら冷や汗が出ます」
(続)
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