<「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も彼らをわたしの手から奪うことはできない。」 (28節)> 「彼は悪霊に取りつかれている」と主イエスを拒んだユダヤ人指導者たち、しかし、彼らの中に「そのようなことが出来るあの方は何者だろうか」と思いを巡らす者もいた。その彼らが、ソロモンの回廊を歩んでおられる主イエスを取り囲んで「いつまで、わたしたちに気をもませるのか、もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と命じるように言った。 この時エルサレムで行われた「神殿奉献記念祭」は、神がユダヤ人をアンティオコス4世から解放したことを記念する祭りであった。彼はシリアの圧倒的な王で、BC168年、エルサレム神殿に神として自分の像を立てた。この祭りはユダヤ人の間ではハヌカーと呼ばれている。 ユダヤ人指導者たちの中にあっても、主イエスを何らかの形で擁護する少数派としては、その証をもって主イエスを拒む人々を説得できると思って、詰問したのかもしれない。 主イエスは「…わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証している。…わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。…」とお答えになった。すでに証は示されているのに、あなた方にはそれが見えず、聞こえないのである。主に従った者には、永遠の命が与えられ、誰も主の手から彼らを奪うことはできないと続けられた。 「『救い』というのは、人間が神のことをしっかりつかんでいるから得られるというものではありません。もしそうであるならば、私たちが疲れたり、躓いたりしたら、すぐにでもその手を離してしまうでしょう。意志が弱い者は決して『救い』が得られないということになります。」と中家牧師は説かれる。 そして「たとえどんなに疲れようと、躓こうと、意志が弱かろうと、神ご自身がしっかりと愛の御手の内に捕らえていて下さるゆえに、わたしたちは決して滅びることなく、何ものも、罪や死さえも、その御手から私たちを奪うことはできないのです。」と続けられる。 また、イタリアに大きな地震があった。災害や事件による突然の死や大けが、幼児の死、報道を聞くたびに胸がふさがる。けれども、その一人一人に確かな神の「救い」が与えられ、他者の目には悲惨としか見えなくても、祝福の中に置かれているということだろうか。 「永遠の命が与えられています。すべては神様の恵みなのです。ひたすらこの恵みに生きましょう」と中家牧師は結ばれている。 「わたしと父とは一つである。」と告げられる主イエス。見ようともしない、聞こうともしないユダヤ人たちにとってそれは、「自分は神だ」として像を立てたアンティオコス4世の姿と重なった。彼らは、主イエスを石で打ち殺そうとして、石を取り上げた。 「イエスは主」と信じた者は体ごと、主につかまれたままである。それが途中で逡巡する告白であったとしても、よくわからず告白したことであっても、である。 日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。
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