<律法全体は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。(14.15節)> レビ記19章「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」 「ガラテヤの教会の中は、律法や割礼の事で意見が対立し混乱していた。パウロはこの事を深く心にかけて、神に召され、キリストの恵みによって律法の束縛から解放されたのですから、与えられた自由を我欲の機会とせず『愛によって仕えなさい』というのです。」と福井牧師は書き出される。 隣人愛によって律法の要求を満たすことが出来るという考えは、パウロの時代、ユダヤの指導者たちも「あなたの憎むことを隣人にするな」という言葉に要約していた。 このたびの沖縄の事件は、大きな怒りを感じる。「二度と起こさないように…」と日本政府が抗議していたが、その言葉は何度も聞いている。米国の「守ってやっている」という根本的な考えがこのような犯罪を生んでいる。解決は、軍事基地を一切なくし、日本が名実ともに「戦争放棄」し、丸腰で生きていく覚悟を国民一人一人が持つことしかない。 核兵器廃絶を掲げたオバマ大統領が広島を訪問することは嬉しいが、そこで謝罪するかどうかが論議されている。安倍首相は先日韓国への「従軍慰安婦」についての謝罪文を読み上げて謝罪した。あのような、形だけの心に残らない謝罪ならない方がましだ。 皇室が南洋の島々を訪問し、戦没者に慰霊の花を捧げたとニュースが出たが、南洋の島々の人々にどんなに被害をもたらしたか、その事について謝罪の要求があったかどうかはニュースにない。目の前の人への謝罪だけでなく、神に罪を告白するのが本当の謝罪だ。 「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉を守るのは難しい。先日特養老人施設をMさんと訪問した。Mさんは1月に102歳のお母さんを天に送られた。100歳になって施設に入られたお母さんが「とうとう自分もここで死ぬのだ」と泣かれたそうだ。 だから、Mさんは施設への入所は不幸なことだと考えている。訪問したKさんは、施設の催しごとにも参加し朗らかに過ごされていたのに、その帰り道MさんはKさんが「可哀想だ」と同情した。隣人を自分のように愛すると、気の毒という感情に陥るみたいだ。 「主のもとにあって、私たちも具体的な状況の中で他者のために愛の重荷を負い合って将来に向かって進んでゆくのです。」と福井牧師はクリスチャンの奉仕について説かれている。「他者のために」だけれど、自分の物差しで他者の幸不幸を判断してはならない。 TVでタレントが、私たちの全く知らない島を訪問する番組がある。人々が持つ武器はせいぜい槍か棒切れ。サミットの国々が攻めてきたらいっぺんに壊滅する。それでも、彼らは軍備増強しない。「戦争放棄」の原点だ。丸腰の彼らをTVは、からかいながら映している。 本当の先進国ってなんだろうかと考えさせられる。進化し、文明を謳歌しながら、絶えず怯えながら生きて「先進国」を誇示する国を、彼らは全く羨んではいない。 日曜日はお近くの教会で礼拝を http://komatsu.church/index2.htmlどなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。
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