以下、上記書籍からの引用。
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実は、『ホスピスへの遠い道』は、わかりやすい動機に貫かれている。「日本式ホスピス」という紛い物によって見えにくくされてしまった、ホスピスの核にある「洋魂」を鷲掴みにしようとする意図は明白である。しかし、岡村が相手にしているのは、ホスピス関係者だけではない。というよりも、岡村の対象は狭義のホスピスではなく、ホスピスを通して新たな人間関係、社会関係の模索であり、ホスピスのルーツを歴史的に解明する作業のなかで、ホスピスのみならず、明治以降の日本の近現代史のあり方もまた問われてゆくという構造になっている。p155
底流としての反権力
1970年に岡村がTVAと水力利用の問題を論じたときに、批判の俎上に上ったのは、水俣病の原因企業・チッソの創業者野口遵や日本列島改造論の田中角栄だけではなく、いち早く公害問題に着目し、『公害の政治経済学』(岩波書店、1972年)等でこれまでの経済学、社会科学のあり方に根源的な問題を投げかけた都留重人も含まれていた。言わば「最も良心的な経済学者」である都留の公害問題を追及するその思考のなかに、むしろ公害の発生を許容する回路が存在するのではないか、という大胆な切り込みを行ったのである。
最も良心的な学者を叩くことで、学問のあり方そのものを根源的に問う岡村の手法は、今回もそのまま活かされている。批判の矢が向けられるのは、東京大学学長を務め(1951-57年)、内村鑑三の流れを汲む無教会主義キリスト教の中心人物、矢内原忠雄である。
矢内原の代表作『帝国主義下の台湾』は、「経済を中心として見たる台湾の社会的発展の科学的分析」であり、もとより日本の帝国主義的膨張や植民地主義を正面切って批判したものではない。しかし、批判への転化の芽をもった「科学的分析」の姿勢は、1937年にはついに軍部との軋轢を生み、東京大学教授の職を追われることになる。これが「矢内原忠雄事件」である。家永三郎は、「日本の現実を批判した思想家は多いが、日本の植民地統治に対し、十分な科学的根拠に立脚した、周到かつ仮借なき批判を加えることができたのは、彼の他に多くの例を求めえないのではあるまいか」と評している。
岡村自身も、「かつて矢内原忠雄先生は、世界のしいたげられた人々を語る場合に、アイルランドと朝鮮のことを忘れることはできないと鋭く指摘されている」と高く評価し、旧岡村蔵書にある矢内原『植民及植民政策』(有斐閣)には多くの赤線が引かれ、アイルランド、朝鮮に関する箇所には書き込みもある。しかし、その矢内原にしても、アイルランド民衆の視点に立てば批判を免れない。
矢内原は、『続余の尊敬する人物』(岩波新書)において、イザヤ、パウロ、ルッター、内村鑑三と並んでクロムウェルを挙げている。4人の宗教家と血なまぐさい政治家を並べること自体が一種異様な感覚とも言えるが*、岡村が問題にしているのは、たとえば、クロムウェルのアイルランド侵攻に対する矢内原の次のような評価にある。「クロムウェルのアイルランド政策は、後世のアイルランド問題の禍根となりました。彼の失敗は、異民族異宗教の国に対する同化政策強行の失敗であります。彼の政策が成功するためには、アイルランド人口の過半を占むる程度にイングランド人の移住が行はれねばなりません」(矢内原1965p289)。ここでは、矢内原の「科学的分析」の姿勢が、明らかに大英帝国側に加担している。
注釈* 矢内原は、クロムウェルを「彼は生涯祈りの人でありました。彼は聖書を食うて生きたのです」と把握し、したがって「彼を導いた原理は政治的といふよりも、むしろ宗教的でした。彼は政治的自由よりも宗教的自由をもってより根本的であると考へました」と捉えている。矢内原のクロムウェル評価には、プロテスタント的偏見が含まれていると思われる。「アイルランドでは“未だ”カトリック」、「“正しき”信仰確立の上に政治的自由、しかして自由に基礎する国内的、植民地的、国際的結合、これがクロムウェルの政治の目的」(同、強調は著者による)といった表現は、事実上、宗教的理由に基づくアイルランド侵攻を正当化しているように思われる。
クロムウェルの残虐な殺戮を事実として認識しながらも、アイルランドの民衆の立場に想像力の及ばない姿勢を岡村は糾弾する。「東洋の英国をめざして生きてきた日本人にとって根本から欠落しているのが、大英帝国の支配下に苦しみ続けてきた植民地下の民衆の視点であった。そのため英国史は何十冊も書かれ、訳されてきたのだが、つい最近に至るまで、アイルランドの歴史を書く人も少なければ、訳書もなかった」。「加害者側からだけでなく、常に被害者側から歴史を見る」ことを求める岡村の歴史観からすれば、矢内原の業績も、所詮は加害者側の視点によるものでしかなかった。
植民政策に関して最も「良心的」であるはずの矢内原においてなお、色濃く表れる差別意識、特権意識を剔抉(テッケツ)することで、日本人の世界史観をひっくり返すことを岡村は試みている。そして、こうした辛辣な批評意識が、アイルランドから生まれたホスピスの歴史に深い陰影を与えた。*
注釈* ちなみに、矢内原が、『余の尊敬する人物』(岩波新書)で取り上げているのが、エレミヤ、日蓮、リンカーン、新渡戸稲造の4人であるが、岡村は「干からびた、美談の合成人間としてのリンカーン」像を叩きつぶすべく、「アブラハム・リンカーンと独逸人の体操家たち」を書いた。ここでも、アイルランド系移民の動向が重要なファクターとして捉えられている。p158
ホスピスの源流を求めて
岡村の信州大学での講演を聞いた同病院の医師・栗本藤基の依頼で、岡村はボランティアを組織し、病棟改革を始めた。その様子は、『訪問インタビュー 岡村昭彦』(NHK)の第3回、第4回で詳しく紹介されている。精神科とホスピスの問題は岡村のなかで深く結びつき、『ホスピスへの遠い道』のなかでも精神科への強い関心が示されている。逆に言えば、岡村にとってのホスピスは、「死にゆく人々」に必ずしも限定されないものとして最初から意識されていたのである。p159
『訪問インタビュー 岡村昭彦』(NHK)
naochi S さんによる投稿
https://www.youtube.com/watch?v=HBDi1kP74pk
アイルランドの最初の訪問先は、ダブリンのセント・パトリック病院という精神病院である。『ガリヴァー旅行記』や『桶物語』で著名なジョナサン・スウィフトがその創立者であり、彼は、「自分自身の本質を、精神を病んだ人々の悩みと同一視」(岡村、1983-85)したのだと岡村は解説する。* 多忙な看護婦の手助けを患者に依頼していることに端的に現れているように、この病院は、「病人」を収容する「施設」ではなく、病気を抱えた人々を含む一つの「コミュニティー」であることを岡村は強調している。
注釈* 岡村は、『ガリヴァー旅行記』を「著者スウィフトが、自国アイルランド独立の情熱から、植民地支配者の英国との戦いとして書いた、民族解放の抵抗文学」とし、「スウィフトの生涯は、そのまま沖縄の日本人が、巨人アメリカに抵抗する姿だった」と、アイルランドと復帰前の沖縄を重ね合わせてみている。p160