<すると主は、「わたしの恵みはあなたがたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」といわれました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(9節)> パウロは「キリストに結ばれた一人の人を知っています」と誰かの身に起こったことのように話しはじめるが、それは彼自身の体験であった。 当時、天にはいくつの階級や階層があるのかと議論されていた。古代ユダヤ教では、第一の天は空高く雲のあるところ、第二の天はそのすぐ上で星や天体が張り付いており、第三の天は、その先にある最も高い天で神が住まわれる楽園であるとされていた。 パウロが知るその人はその楽園にまで引き上げられ、言い表しえない言葉を耳にしたのだと言った。そのような体験を通して伝道者は自分の使命を確信する。そしてそれは誇るべきことだが、自分自身については、肉体的にもあまりに弱く、その弱さ以外に誇るものはないと言った。 パウロは「私の身に一つのとげが与えられました」と書いているが、それが具体的に何を指しているのか明らかではない。肉体的な問題、精神的な不安、または直面する迫害からの恐怖が考えられる。パウロはこの苦しみを取り払っていただくように祈ったが、聞き入れられなかった。 パウロは自分に与えられた棘は、パウロの思い上がりを抑え、痛めつけるためにサタンから送られた使いであると考え「サタンを去らせて下さい」と主に祈った。私たちも主の祈りで「・・・我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ・・・」とサタンを去らせて下さいと祈っている。 災害、戦争、事故やけが、病、死にあたって絶えず祈るが、祈るものの願いが「聞き入れられなかった」と思うことは多い。けれども、それは大概あとでゆっくりと考えてみると、思いがけない方法で聞き入れられていることがある。そのような回り道を通ってしか自分の目が開かなかったんだといつも気付かされる。 そうはわかっていても「平安が与えられますように」と、難渋する福島原発の修復作業に、昨今のシリアの厳しい情勢に、祈らずにはおれない。 パウロの祈りに主は「私の恵みはあなたには十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と応えられた。 その御言葉にパウロは「私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです」と決意をしるす。
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