『告白』にこういう表現があります。文庫でいうと134ページですけども、 三月三十×日 これヘンですよね。だって「×」のとこに入るのは「一」以外にないんだから。伏字にする必要がない。 こういうとこで「これヘンですけど、おーけー?」と聞く、それが校正ですね。 ただまあこの伏字、というか「この本(=『告白』第三章)の日付の表現」はそういう風に、●月●日の「●日」のほうは伏せる「×」で統一してあります。なので「三十一日」だとしても、伏せておかないとかえって不自然になる、統一感を欠く、という事情もありましょう。 そういう事情も考えられるので、はっきり「×はヘン!」とは言わずに「ヘンですけどおーけー?」と、疑問だしのレベルにとどめるのも校正でしょうね。 少なくともおれがこの原稿を読んだらそんな風に、疑問だしレベルにします。朱は入れません。「ぜったいこう直すべきだ」という強気の態度はとらないで、あとは著者さん/編集さんサイドの問題というカタチにして、つまり逃げます。 とはいえ、同書を読んでる人なら分かると思いますが、直樹の母親の日記によるこの章は、日付を伏字にする必要はありません。まったく。「三月三十一日」「七月十五日」など、「架空の日付を設定してしまってまったく問題ない」ものです。 だってたとえば、ノンフィクションとかで「その日付がばれるとプライバシー侵害になるから避けたい」「ある固有の社会的事件なりに言及してるような内容になるのを避けたい」とか(ま、たとえば9/11とか3/11とか1/17とか、そういう日付のことですな)、そうじゃないわけです。 小説内部の、ある固有の日付への言及というカタチを避けたいとか、そういうもんでもない(そもそもこの小説では、事件なり事故なり犯罪なりが起こった具体的な日付はすべて明らかにされていません)。 ですので「ヘンだけどおーけー?」のあとに、「そもそも伏字にする必要はないのでは?(この章の日付全般)」とおれなら書き足します。これも校正といえば校正だと思います。 だって「校正さん」と呼ばれるときのあたしは、そういう風にシゴトしてきましたから(あるイミ無根拠)。 ここで、「この章の日付、伏字にする必要あるかなあ? だって『三十×日』はヘンだよねえ?」と著者さんに相談する、これは校正でも批評でもなく「編集」てことになると思います。 されそれで、これまでの話で分かるのは、 ・ムダに「謎めいた表現」を好むのが湊かなえである。 ・それで読者の失笑を買ったりする(こともある。気づかない人は気づかないでしょうけどね)。 ・(そんな風に校正者と編集者のシゴトをふやす作家でもあるけれど、そういうのは内部事情なので読み手には関係ありません)。 ということですが、これが批評ですよね。 たぶん『読書入門+』は、評論なのか教育書なのか、個人的な感想文なのか、とっても分かりづらいものだと思いますけど(文中でもおれは、そのみっつ+を併行して使ってますしね)、こういう風にちょっとずつ解体していきます。 「考える」してくださいね。この本に興味を持った方。「対話的」をやってください。 「ここは『校正』的な観点から書いてある、ここからは『批評』になってる…」、とかそういう感じ。
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