内容(「BOOK」データベースより)社内勉強会でハンセン病と人権の問題について発表するまで、残すところ1週間となった。発表用資料はお盆の里帰り期間中にある程度作ってあるので、今は参考文献を増やすべくいろいろ資料を読んでいる真っ最中である。まあ、昼食を食べながら有志が集まってやる小規模な勉強会で、それが直接仕事につながっていくわけでもないので、多少舌をかむところがあっても大目に見てはもらえるとは思うが。 先に発表用資料をあらかた作った上での資料の読み込みであるわけだから、読むにあたって知りたいポイントはある程度ははっきりさせてから読み始める。例えば、少し前に読んだ熊本日日新聞社編『ハンセン病とともに心の壁を超える』では、2003年11月に起きたアルスターホテル宿泊拒否事件の経緯や、ハンセン病国家賠償訴訟で国の責任が明らかになった上で、なぜ隔離政策が半世紀にもわたって放置されてしまったのか、今後何が課題となってくるのかを知りたかった。 この『ハンセン病とともに心の壁を超える』発刊の前に、同じ熊本日日新聞社が、もっと大部なハンセン病の歴史を扱った本を出している。前述の国家賠償訴訟は、熊本地裁に対して行なわれているので、まさに同紙にとっては足元で起こっていたことであり、20世紀初頭にハンナ・リデル女史が回春病院を立ち上げて患者の診療活動を始めたのも、我が国のハンセン病史においてとりわけ影響力の大きかった「本妙寺事件」(寺の周辺に形成されたコロニーの住民の強制連行)や「黒髪校事件」(ハンセン病患者の子息の学校受入れが拒否された)が起こったのも熊本でのことである。そして、ハンセン病療養所の中でも最も入所者の多かった菊池恵楓園も熊本市近郊にある。 そうした立地であったため、国の隔離政策に対して異論を投げかけられるチャンスもあったにも関わらず、同紙はそれをやらず、時には国の政策を肯定するような報道まで行なってきた。本書は同紙で連載された特集記事をもとにして編集されたもので、相当数の取材にもとづいて書かれているルポ形式の本に仕上がっているが、その動機となったのは、国の不作為を長期にわたって見過ごしてきたメディアの怠慢に対する深い自責と反省の念である。そして、熊本県内で何が起こったのか、様々な出来事の経緯とその後に及ぼした影響を整理している。 本書の第1章(章の下に部というのが6つある構成になっている)は、それだけで230頁以上あり、熊本県中心の記述ではあるものの、国の政策について何が起こっていたのか、誰がどのような考えを持ってどう動いたのかを理解しておくのにも十分役立つ、豊富な情報が網羅されている。 とりわけ僕にとって有用だったのは、菊池恵楓園元園長の宮崎松記博士に関する言及が非常に多かったことだ。随分昔に述べたことがあるが、宮崎園長は恵楓園退官後、インドに専門家として赴任し、アジア救らい協会(JALMA)インドセンターの初代所長に就任している。病理研究の専門家としてはインドの関係者の間でも高く評価され、尊敬されている方であるが、恵楓園園長時代の発言や行動について書かれたものを見ると、隔離政策の徹底を国に訴えた張本人の1人とされており、インド時代とは評価が180度異なる。 これをどう捉えたらいいのか、それを整理するのは僕がインド駐在員時代にやりたかったことの1つだった。しかし、それを実行するはるか以前に帰国の辞令をもらってしまい、帰国してから最近に至るまでの3年間も、それに取り組むことができなかった。ハンセン病自体と向き合うこと自体この3年間やってなかったのだから、僕の怠慢だと言える。 本書を読むと、隔離政策の徹底を国に訴えた以外に、宮崎園長が熊本で何をやられていたのかが結構具体的に書かれている。本妙寺事件で園長がどのような役回りを演じたのかも、読むとかなり幻滅させられる内容だ。宮崎園長に対する評価は、僕が思っていた以上に悪かったのではないか。読むとますますインドとの関係がわからなくなってしまった。宮崎園長の言動の裏にあった彼の考え方とその変遷については、まだまだ調べていかなければならないと感じた。 いずれにしても、そのエントリーポイントとしては非常にいい本だと思う。僕は図書館で借りて読んだが、今後も時々読み返したいと思い、中古で1冊購入することにした。
人が人として生きられない、隔絶された場所、ハンセン病療養所。人間回復を求めた魂の軌跡!2003日本新聞協会賞受賞、2003日本ジャーナリスト会議賞受賞。我が国は、この病気とどう向き合ってきたのか。
↧
『検証 ハンセン病史』
↧