<なぜなら、あなたがたは、誰かがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。(4節)> パウロたちへの批判を続ける人々にパウロは反論する。反論は何も良いものを生まず、愚かなことだと知っているが、少しだけ我慢して聞いてくださいと書き出した。 当時のユダヤ人やギリシャ人の文化では、性的な交渉のない女性は、花嫁として尊ばれた。パウロはまるで自分が父親のように、自分の娘(コリントの信徒)を最もふさわしい花婿(キリスト)との結婚の時までその純潔を守りたいと願っていた。大切に育て、理想の夫と婚約した娘が、誘惑者の言葉に乗って道を踏み外そうとしているのを看過できなかった。 受け入れたことのない違った福音を受けながら「あなたがたはよく我慢しています」というのは、褒め言葉ではなく強烈なパウロの皮肉であった。違った福音や、違った霊はもはや「霊」とも「福音」とも呼べなかった。 それらを受け入れる寛容や忍耐は信仰の命取りになる恐れがあり、教会があるべき方向から逸れてしまう。コリント教会の場合は、割礼が持ち出されたり、食物に厳しい制限を加えたり、律法を守ることによって救いが与えられるとするユダヤ主義的福音によって違った方向に行きはじめていた。 次にパウロは、コリントでの宣教の間、教会に報酬を求めることはしなかったと言った。第一コリント書でパウロは「神殿で働く人は、祭壇の供え物の分け前にあずかります。同様に、主は福音を宣べ伝える人たちは福音によって生活の資を得るようにと指示されました。」と記している。 そして「しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら死んだ方がましです。誰もこのわたしの誇りを無意味なものにしてはならない。」と続けている。 「あなたがたのもとで生活に不自由した時、誰にも負担はかけません。マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれたからです」と頑ななまでにコリント教会からの援助をパウロは拒んでいる。経済が発展していたコリントの町は、現代のように人の働きをお金で換算するところがあり、パウロはそのことに馴染めないものを感じていたのだろうか。 戦後教会は多くの信徒で溢れた。とりわけ欧米の文化に憧れ多くの学生が集まったが、潮を引くようにいなくなった。社会にもまれなくなってしまった福音ははじめから福音ではなかったのだろう。 初代の教会のように絶えず「イエスは主なり」と告白し「信仰の防波堤を築く」ことを南牧師は勧められる。
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