古川日出男の作品は「13」「サウンドトラック」「アラビアの夜の種族」「ベルカ吠えないのか」「聖家族」と何冊も読んでいるが、読むたびにその怒涛の文体と展開、圧倒的な熱量にめまいを起こさせられている。その最新刊。なんという分厚さ!(500頁超!なんで2段組にしなかったんだろうか?)
妙な題名だが、「二十一部経」とは、第一から第七の書に分かれる各章にそれぞれ「コーマW」「浄土前夜」「二十世紀」の三つのパートがあり、三×七で二十一となっている。しかし「お経」とは! 各パートは以下のとおり。 ●「私」が、病室で昏睡し続ける「彼女」を見舞う「コーマW」。ほんの2,3頁 ●牛頭馬頭(ごずめず)の怪物に占拠された、いつとも知れぬ荒廃した「東京(江戸=穢土)」を舞台に、二人称形式で「お前」という存在が、鶏、虎、狐など獣たちから人間へと生まれ変わる「浄土前夜」。 ●六つの大陸と一つの亜大陸で様々な(一種フリークスな)人間たちがロックンロールに出会い、成長し暴発し破滅していく物語が壮大にマジックリアリズム的手法で綴られる「二十世紀」。 「二十世紀」編は各編がそれだけで一片の短編小説ともなりえるほどの質量と強さを備えている(「ほとんど史実」だってぇ?!)のだが、ロックンロールというキーワードで通底していて、やはり、全体の中に散りばめられてこそ存在感を放っている、という印象だ。 対して「浄土前夜」の方は設定がぶっ飛んでいて、荒々しい超常的ファンタジーになっており、解釈が難しい。 「コーマW」は記述が極端に説明不足で、最後になるまで事情が掴めない。それゆえこの作品は一気に読むしか無い。またそうさせる力を持っている。 >「最後にちゃんと着地するということは声を大にして言いたいです。ちゃんと納得するから、と。納得したらもう一度読みたくなるはずです」(古川氏) とのことだが、たしかに最後の書の最後になって、あっと驚く(作家自らを素材に投げ出すという)仕掛けで物語が統合されるのだが、いや待って、ちょっと私の貧弱な脳髄ではまとめきれないんですがァ! それにしてもすごい読書体験だった。 3.11(東日本大震災)の後、小説がそれにどう対峙するのか?という問題意識がある、といろいろなところで(古川本人からも他の書評家からも)語られているようなのだが、この作品の中には3.11そのものは全く出てこない。しかし、あれ以後でないと書かれ得なかった作品である、という感は強くする。20世紀を捉えなおし、21世紀への連続と分断とを経て、立ち止まって考える姿勢を感じた。↧