『屋根の日本史』 原田多加司 2004/12
著者は檜皮葺師・杮葺師の10代目。 屋根を中心に日本の建築物について解説する本。
現在、国の重要文化財に指定されている建造物は約3800棟。年間約150棟の文化財修復が行われている。修復サイクルは、ふつうは数十年間隔でやってくる。
日本の伝統的な屋根は、草葺・茅葺(かやぶき)・檜皮(ひわだ)葺・板葺・杮(こけら)葺・瓦葺。
本当のことをいうと、雨がまったく漏らない屋根というのはありえない。住んでいる人が自覚していないだけである。葺材が何であれ、屋根の隙間から浸入した雨水は屋根裏(小屋組)にも忍び込んでいるはず。それが部屋の内部まで侵入できないのは、小屋組が湿潤と乾燥を繰り返すことによって、雨漏りを防いでいるから。
縄文時代の竪(たて)穴住居は屋根だけだったといってもいい。この竪穴住宅は少しずつ形を変えたものの、鎌倉時代まで続いたという研究がある。
古代から平安時代後期にかけての建築様式は、ほとんど身舎(もや、母屋)と庇(ひさし)だけで成立していた。日本の屋根は先端に軒がつくのが特徴である。
屋根の基本形式は「切妻造」「寄棟造」「入母屋造」「宝形造」。 上代においては、切妻屋根の住居を「真屋(まや)」、寄棟屋根の住居を「東屋(あずまや)」と呼んだ。
檜皮葺・杮葺の原形ができたのは弥生時代といわれる。本格的に用いられたのは6世紀の仏教伝来以降。わが国固有の屋根葺工法。檜皮葺の重さは瓦の1/3、杮の場合は1/7。
住宅が軒をつらねる密集地では、瓦は植物性屋根材にくらべて、延焼を防止する意味からも有効。江戸では寛政4年(1792)の大火のあと、11代家斉(いえなり)が瓦葺以外を禁じている。
平安時代の貴族の住宅、「寝殿造」は檜皮葺。
瓦が城郭でも使われ始めたのは、永禄10年(1567)の信長の岐阜城あたりから。スクラップ・アンド・ビルドが激しかった中世の山城においては、恒久施設向けの瓦は控えられたようだ。信長が入京した当時の京の町は、寺院は瓦葺、禁裏や上級公家は桧皮か杮、一般の公家や商人は曾木板葺、庶民は板葺や茅葺。
著者は檜皮葺師・杮葺師の10代目。 屋根を中心に日本の建築物について解説する本。
現在、国の重要文化財に指定されている建造物は約3800棟。年間約150棟の文化財修復が行われている。修復サイクルは、ふつうは数十年間隔でやってくる。
日本の伝統的な屋根は、草葺・茅葺(かやぶき)・檜皮(ひわだ)葺・板葺・杮(こけら)葺・瓦葺。
本当のことをいうと、雨がまったく漏らない屋根というのはありえない。住んでいる人が自覚していないだけである。葺材が何であれ、屋根の隙間から浸入した雨水は屋根裏(小屋組)にも忍び込んでいるはず。それが部屋の内部まで侵入できないのは、小屋組が湿潤と乾燥を繰り返すことによって、雨漏りを防いでいるから。
縄文時代の竪(たて)穴住居は屋根だけだったといってもいい。この竪穴住宅は少しずつ形を変えたものの、鎌倉時代まで続いたという研究がある。
古代から平安時代後期にかけての建築様式は、ほとんど身舎(もや、母屋)と庇(ひさし)だけで成立していた。日本の屋根は先端に軒がつくのが特徴である。
屋根の基本形式は「切妻造」「寄棟造」「入母屋造」「宝形造」。 上代においては、切妻屋根の住居を「真屋(まや)」、寄棟屋根の住居を「東屋(あずまや)」と呼んだ。
檜皮葺・杮葺の原形ができたのは弥生時代といわれる。本格的に用いられたのは6世紀の仏教伝来以降。わが国固有の屋根葺工法。檜皮葺の重さは瓦の1/3、杮の場合は1/7。
住宅が軒をつらねる密集地では、瓦は植物性屋根材にくらべて、延焼を防止する意味からも有効。江戸では寛政4年(1792)の大火のあと、11代家斉(いえなり)が瓦葺以外を禁じている。
平安時代の貴族の住宅、「寝殿造」は檜皮葺。
瓦が城郭でも使われ始めたのは、永禄10年(1567)の信長の岐阜城あたりから。スクラップ・アンド・ビルドが激しかった中世の山城においては、恒久施設向けの瓦は控えられたようだ。信長が入京した当時の京の町は、寺院は瓦葺、禁裏や上級公家は桧皮か杮、一般の公家や商人は曾木板葺、庶民は板葺や茅葺。





