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小林朝夫『本当は怖ろしい日本語』を読む~その3

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ここまで見てきたように、この本における小林朝夫サンの話法というのは、或る字義解釈にかんして言われていることをヒントに、話を1万倍ぐらいに膨らませて話を面白くする、というものである。 今回もまた、そのパターンが如実に表れている事例として 「民」 という字についての彼の説明をみてみよう。

古代文明において、奴隷の労働力は必要不可欠であった

  (中略)

しかし、歴代の王たちは奴隷の扱い方に悩んでいた。足に鎖をつけて逃げられないようにすれば、鎖が足を傷つけてしまい、かえって労働力が落ちてしまう。また、手錠をかければ当然うまく物が運べない。

  (中略)

ある日、王が忠誠心の強い側近に、どうすれば奴隷をうまく飼いならせるかと相談したところ、側近はこう答えた。
で、どう答えたかというと「奴隷たちの片目をつぶしなさい。自分は右目が見えないのだが、簡単な作業ならできるし、走ろうとしても視界が狭くてうまく走れない。相手の攻撃が見えないので戦う気力も起こらないよ」。で、
次の日、奴隷たちの鎖は早速外された。その代わり、右目が見えなくなるよう、針で一人ずつ目を刺された。
とまぁ朝夫サン、見てきたようなことを書いている。まぁいいや。例によって白川静『新訂 字統』が「民」についてどう書いているか見てみよう。確かに
目を刺している形。一眼を刺してその視力を害し、視力を失わせることをいう。
とある。頭の弱い方は「なるほど小林センセイの言う通りじゃないか」と早合点してしまいそうだが、しばし待たれよ。白川先生はこんなことも書いているぞ。
古代には異族の俘虜などが奴隷化されることが多いが、それは神の徒隷臣僕として、神にささげられるもので、そのとき障害を加えることがあった。のちその語義が拡大されて、新しく服属した民一般をも、民といった。
民の起源は、もと神につかえるものとして、その目を突き刺して視力を失った者である。楽人などもみな瞽師(引用者注:盲人の楽師のこと)であった。
おわかりだろうか。 古代の国家では祭祀というものはとても大事なものであって、神に奉仕する奴隷みたいな人々が必要だった。そこには「神にはべる役目を果たすには、ある種の身体障害をもった、たとえば盲人がふさわしい」みたいな観念があったのだろう。この辺、日本のイタコに盲目の人が多かったことを連想させたりもする(もっとも目の悪い人だってできる職業として彼女たちはイタコを選ばざるを得なかった、みたいな見方もできようが)。 で、そういう盲人=神に仕える者をどうやって調達したかというと、捕まえた異族を連れてきて、その人間の目をつぶして奉仕させる。そういう仕組みがあったからこそ「服属して目をつぶされた人」=「民」という漢字が生まれ、のち、別に目をつぶされてなくても「服属した人」であれば「民」ということになった、そういう話だったのである。 さて、こうやって真相がわかったところで改めて朝夫サンの文章を読んでみると、やっぱり話を作ってしまっていることがわかる。 朝夫サンは「奴隷をおとなしく働かせるにはどうしたらいいか、困った困った」と悩んでる支配者が、「ああそうだ、片目をつぶせばうまくいくじゃん」ということで奴隷たちの片目をつぶすシステムを作り出しました、そこから「民」という字が誕生したのです、というストーリーを展開している。 が、「民の字はもともと人の目を刺してつぶすさまを表現している」というのは正しいとしても、そのあとのエセ歴史小説みたいな部分は全部創作なのだった。では古代中国の奴隷というのは揃いも揃って隻眼だったのか? だいたい「片目をつぶされたら走るのが難しくなるので逃げようとしなくなる」なんてリクツが成立するだろうか? やはり白川説の「神に仕える奴隷」に限っての話と考えないと、実にトンチンカンな話になってしまう。ま、いつものことではあるのだが、字典を斜め読みしたぐらいでこんな本をでっち上げようとすると、やっぱりボロが出てしまう。

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