この本は、精神科医である著者による、父と子の関係についての本です。
「父親とは何か」「父親は必要なのか」「父親不在を、子どもはどう感じるか」などの問いに答えながら、家族関係や人間関係に上手くいかない人の原因を、「父と子の関係」から探る内容です。
この本の構成は、以下のとおりになっています。
序章 父親は必要なのか
第1章 愛着対象としての父親
第2章 瀕死のエディプス
第3章 自我理想としての父親
第4章 父親不在症候群
第5章 父親を求めて
第6章 放逐される父親 父親は悪者か
第7章 永遠の父親
私は本を読む際に、赤ペンで気づきの部分に線を引っ張っているのですが、線を引っ張った場所がやたらと多くなってしまいました。泣けてきます。「子どもはそんな風に思っていたのか」、「自分の子どもも将来、そんな風に感じるときが来るのか」、「自分の父親も子どもの頃、そういう体験をしたのだろうか」などと、自分の身の回りに当てはめて考えてしまいます。
「統計的に〜」という子育て本が巷には多くあります。そういう本は数字で証明しながら、だけどどこか自分事として捉えていない表現が多く見受けられます。しかし、この本を読んでみてください。統計的な数字はほとんどでてきませんが、精神科医として少年院での経験がある著者だからこその表現が随所に出てきます。本気で子どもたちと向き合った過去があるからこそ書ける、共感できる内容です。
以下は読書メモです。大量です。
子の父親との関係は、母親との関係以上に心理社会的なもの。それは、社会や時代が変われば、そして心理的、社会的な状況によって左右されやすい。
母親の新生児から乳幼児にわたる緊密で愛情深いかかわりが、子どもの健全な成長のためには不可欠。
生まれてから1年ほどの母親のかかわりが、その子の精神的な安定や対人関係の質だけでなく、身体的な健康や知的・社会的な発達、ストレスに対する抵抗力、子育てやパートナーとの関係にいたるまで、はかりしれないほどの影響力を、生涯にわたって及ぼし続ける。
かつて父親は、一家のリーダーであると同時に、教育者であり、精神的な支柱であった。
少なくともわれわれの社会においては、父親がいなくても、子どもの生存には、ほとんど影響しないだけでなく、それ以外の発達や健康面においても、母親の不在ほどには影響しない。父親との愛着よりも、母親との愛着の安定性が、子どもの対人関係を左右することも知られている。父親との関係が悪くても、母親との関係が十分に安定したものであれば、父親からの負の影響は補われる。
母親はより重要だが、母親だけでは、やはり子どもの成長に困難を抱えやすい。
父親と良好な関係をもてないと、アイデンティティの獲得に苦労しやすい。
父親に対して恐怖と嫉妬を覚え、母親に性的な願望をもつエディプスコンプレクスが、人間の中心的な葛藤
母親の欲望に呑み込まれたままでは、健全な成長が遂げられない。父親の役割が必要になってくる。母親の愛情のぬるま湯の中に呑み込まれてしまわずに、一人前の大人に成長していくためには、欲望に枠組みが与えられ、現実化するプロセスが必要。父親は、子どもに対して乗り越え難い限界として立ちはだかるとともに、子どもを母親との関係から外の世界へ引きずりだすことによって、欲望を地に足のついた、練り鍛えられたものに変えていく。
母親に対する役棒が際限のないものにならないように、父親はそれにブレーキをかける役割を果たしている。また、母親に呑み込まれるのを防ぐべく、外の世界への連れ出す役割を果たす。こうした父親の役割が、子どもがバランスよく育つためには必要だ。
遊びに関しては、父親は、母親にはない捨てがたい魅力がある。
主たる養育者が男性の場合は、母親が主たる養育者の場合や、夫婦で子育てする父親と比べて、むしろ子どもに対する愛情が乏しい傾向がみられた。
このことは、わが子の養育をすることになった父親が、むしろそのことを負担に感じ、子どもに愛情を感じる余裕さえなくしがちな状況に置かれていることを示唆している。こうした現実は、男性が時代の流れに抵抗して、育児に消極的だというよりも、男性にそなわった生物学的な特性が、育児を全面的に引き受けることを困難にしている。
父親の不在が、「母という病」を生みやすくした。「母という病」の実行犯は母親であったとしても、母親をそこに追い込んだ本当の犯人は、父親であったかもしれない。
親から見捨てられた子どもが非行に走るように、パートナーから放っておかれた大人も、非行に走ることで自分を紛らわそうとする。
教育や産業の大規模化は、父親の役割を限りなく希釈してきた。その費用を稼ぐことが、ほとんど唯一の使命とさえなった。
不在の父親を求める気持ちは、むしろ激しい渇望と言えるほど強力で、その子の人生を背後から操っているとも言える。
結局、子どもには母親も父親も必要なのだ。それぞれには、得意とするかかわり方があり、得意とする時期がある。乳幼児においては、母親の役割は圧倒的に重要だ。忍耐強く、行き届いた世話をするということにかけて、所詮父親は母親には敵わない。
しかし、子どもが少し大きくなるにつれて、父親の役割は増大してくる。まずは、母親からの分離を助けるとともに、子どもに世の中の掟や厳しさというものを教える。また、遊びということにかけては、父親は母親の追随を許さないものがあり、子どもたちの行動や知的好奇心を刺激する。さらに思春期から青年期にかけ、父親の存在は一段と重要性を増す。社会への誘う導き手として、エスコート役、コーチ役、ときには、反面教師役を果たす。
こうした父親のバックアップを受けられる子どもは、幸運だと言える。それは生きていくために必要不可欠ではないまでも、あった方が有利なものだ。それゆえ、子どもは父親を求める。現実の父親が用をなさない場合は、こことの中に作り出した理想の父親像を求めることによって、現実の欠如の埋め合わせをしようとする。
母親との関係が、子どもの存在の根底的な安定にかかわっているのに対して、父親との関係は、子どもがどちらに向かって歩んでいくかという人生の方向性や社会への関与の仕方にかかわる部分が大きい。父親は手本となるにしろ反面教師となるにしろ、自らの身をもって、その人生の成功と失敗によって、わが子にこうなるべき、あるいは、こうなってないけない人生を教える。
今では、すっかり父親のことを見下していたり、どうでもいい存在としか思っていない人でも、もう思い出せないくらい過去において、父親に同一化しようとした時期があるものだ。そして、そんな憧れは、父親を恐れる気持ちと愛する気持ちの間で葛藤を乗り越えようとして、子どもがたどり着いた境地だった。
やがて父親に対する憧れは色あせ、子どもは父親から距離を乗り、独自の歩みを始めるが、それは自己確立に向けた大切なステップだった。この新たな段階を父親が受け止め、静かに見守ってくれると、子どもは必要なときだけ助けを求め、スムーズに自立していくことができる。
しかし、父親が自分の路線にこだわり、子どもの願望ではなく自分の願望を押し付けたりすると、子どもの自立プロセスが阻害され、子どもの思いとのズレが大きくなり、激しい反発や迷走につながる。
それでも、父親との肯定的な関係を、ある程度の期間もつことができた子では、長上の存在と良好な関係を維持しやすく、援助や引き立てを得やすい。
ところが、父親に対する恐れが強すぎる場合や、両親の不安定な関係のため、父親を愛する気持ちを歪められた場合、子どもは父親との葛藤がうまく乗り越えられず、父親に対する敵意や見下した態度を強めることで自分を守ろうとする。こうした傾向は、父親に対してだけでなく、他者全般、ことに長上の存在に対してぎくしゃくしたり、反発したり、信用できなかったりという事態につながりやすい。
現実の父親に対する失望感から、それとは真逆な理想の父親を求めようとし、あるいは自らがそうした存在になろうとする。しかし、子どもは同時に、現実の父親に愛されたい、同一化したいという願望をもち、いつのまにか自分が憎んでいたはずの現実の父親に似た存在をおびき寄せたり、自らがそうなっていたりする。子どもは、どんな父親であっても憎みきれないのだ。認められたい。愛されたいと願うのだ。
父親不在の人にとって、危険なことや悪いことを教えてくれる先輩が、しばしば魅力的な存在として映る。父親には、子どもを冒険や世界に誘うという役割があり、危険を恐れない悪い先輩に、母性化した父親にはない真の父親を感じてしまう。
愛着形成の男系で問題が残ると、基本的な安心感が乏しく、傷つきやすかったり、気分が不安定だったり、自己否定強まりやすい。
母子分離の段階をうまくクリアできないと、距離の取り方がわからなかったり、依存的だったり、誇大な万能感や自己愛が強いという特徴をしますだろう。プライドや理想ばかりが高く、現実的な能力とのギャップが広がり、不適応を生じやすくなる。仕事や対外的な関係でもうまくいかなかったり、いっそうストレスを強めて、不満やフラストレーションをパートナーにぶつけるようになる。理想の母親をパートナーに求めようとするので、思い通りにならないパートナーに対して、激しい怒りを覚えてしまう。
父親との葛藤が未処理の場合には、三者関係が苦手で、独占欲が強すぎたり、強情だったり、妥協がうまくできない。情よりも力を信奉することもある。父親にされたように、力でねじ伏せようとしたり、無視することで相手を貶めようとし、DVやモラル・ハラスメントの危険が増大する。
知らず知らず理想的な父親を求めてしまい、友達や上司に対して、過度な期待や失望を抱きやすい。逆に父親の関係が稀有な人では、過度に距離を取った態度を取りやすいし、父親との葛藤が強いひとでは、人に対する緊張や警戒が強くなり、むやみに挑発的で反抗的な態度をとり、無用の摩擦を増やしてしまいがちだ。
まず自分のなかの理想の父親像やひていてきな父親像への囚われを自覚することだ。理想の父親像を相手に求めていないか、否定的な父親像と相手を同一視していないか、振り返ってみることだ。
相手の安全基地となること。
相手だけを悪者視する幼い思考を脱しよう。
否定てきな父親像は、少なからず捏造されたり、誇張されたものであることが多い。そこにかかわっているのは母親の操作や作為だ。意図的にそうしたというよりも、子どもにとっては、母親がネガティブな反応をしているときの印象が強く残りやすいため。
父親との小さな思い出、ちょっとしたかかわりを思い出してみることだ。父親があなたのためにしてくれていたことを、父親があなたに言った言葉を、父親からあなたに注がれていた眼差しを。
一度共に過ごした子どものことを、父親は忘れることはない。
父親をもう一度見直すということは無関係な人のことを考えることでない。それはあなた自身を考えることなのだ。
父親ができそこないだろうが、滅多に顔を合わさない存在だろうが、いやそれだからこそ、求めずにはいられない。愛されたい、愛したいという思いを抱き続ける。
必要なのは、あなたの父親に起きていたことを、共感的に理解することなのだ。そして究極的には、父親への思いをとりもどし、あなたを縛っている父親の呪縛から、あなたを解放することなのだ。
母親と父親は、本来、補い合う関係にある。母親がうまく機能しなくなり、母という病が広がる背景には、父親の不在という裏返しの現実がある。父親がいても、機能的に不在だという状況の中、母親にかかる負担が大きくなり過ぎている。
口先で何と言おうと、子どもは父親を必要としている。子どものバランスの良い発達と成熟のためには、母親と同じように父親が必要なのだ。幼いときほど母親の役割が大きいが、大きくなり思春期を迎える頃には、むしろ父親の役割が増大する。そのとき、父親が心理的に不在で、父親として機能していないと、子どもの成長や安定は損なわれやすくなる。
少々欠陥があろうと、子どもは父親を愛したい。愛するに価する人間だと信じたい。そうすることは、子ども自身の幸せにも通じるのだ。そんな切ない子どもの願いを、踏みにじることがないようにと願わずにはいられない。
父親なんて、いらないーとうそぶいていても、心の底で子どもは、父親を求めている。そして、父親も母親も幸せでいてほしい。できれば二人が仲良く、愛し合う存在でいてほしい。それが無理なら、せめて傷つき合わずに、互いを尊重した関係でいてほしい。子どもが、そう願うことは、願いすぎだろうか。
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