<あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんな関わりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。(14節)> コリント書Ⅰの5章によると「不信仰のない人」とは、未信者の人々ではなく、教会内において、兄弟たちと呼ばれる人だと示される。11節には「兄弟と呼ばれる人で、みだらなもの、強欲なもの、偶像を礼拝する者、人を悪くいう者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」と記されている。 コリントの信徒の中には、偶像を安置した地元の神殿の祝宴に招かれる者もいた。祝宴の食事として出されるものは、神々に供えられたものであった。そこで飲食を楽しむ彼らの姿は偶像を礼拝するかのように人目に映っていた。 交易で栄えるコリントでの彼らの生活は多くの誘惑に直面した。そのことは、今の私たちの教会でも無縁ではない。仕事を理由に礼拝を休むことも、子供が塾のため日曜学校に来なくなっても止むを得ないと考える。ずるずると世の流れに引きずられている姿は、人々の目にどう映っているのだろうか。 パウロはそのような弱さを持つ者に、神の霊はすべての信徒の中に住んでいるので、個々の信徒のからだは神の神殿である「わたしたちは生ける神の神殿なのです」と強く訴える。 そしてイザヤ書52章「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ。汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ。主の祭具を担う者よ。しかし、急いで出る必要なはい。逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから」をあげる。 先日は校区の夏祭りがあり、お化け屋敷や露店、お神輿、盆踊りといろいろ大人たちは子供たちが楽しめるように企画した。健全を目指す祭りは、「寅さん」も「見世物小屋」も「サーカス」もない。しかしそれは、自分が幼いころ経験した妖しさ、危うさに裏打ちされた面白さのない薄っぺらなものだった。 それじゃどうするかと反省会で話し合った。すると、Kさんが「何か、シンボルがいる」と提案した。昔の祭りは神社であったからみんなが何かを祈願したり、その御利益をもらうため集まってきたんだ。ここでもなんかシンボルがあったらいいのにと言われた。 8.15集会の言葉と重なった。天皇制復活はこういう些細な話からみんなが賛成してしまうんだろうなと実感した。皆が頷く中その流れに抵抗するのは難しい。 しかし、自分の力は貧弱でも「あなたはわたしの娘である」と言って下さる全能の主の力は想像できないほど偉大である。
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