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もうじやのたわむれ 310

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 確かに船のデッキにあるマホガニーの板敷きの客室には、乗船客は我々だけしか居ないのでありました。我々は広い客室の、隅の方の席に固まって座るのでありました。  せっかく広々とした客室を一亡者三鬼で独占出来ると云うのに、ど真ん中に悠々と席を取らずに隅の方に固まるのは、例えて云えば客の少ない事で有名な、娑婆の寄席の池袋演芸場の場合と同じ理屈からでありましょう。広い客席に少数となると、何となく中央の席は、不意に噺家と目があったり、偶に笑わないでいるとじいっと見つめられたりなんかして、実に居心地が悪いものであります。だから竟々、隅っこに座を取って仕舞うのであります。それに見知らぬ客同士であるなら、夫々がてんでに高座から遠い位置に居竦むわけでありますが、これは高座の上の落語家にしたら実に以ってやり難い状況でありましょう。  この三途の川往来の豪華客船内には当然ながら高座なんぞはなく、噺家が出て来るわけでもないのでありますが、しかし閑散とした船内の中央にどっかと腰を据える豪胆さは、我々の内の誰も持ちあわせていないようでありました。この三鬼は娑婆の、如何にも日本人的な感覚の持ち主達のようであります。まあ、親近感は大いに持てるのでありますが。 「客室の入口に自動販売機がありましたから、お茶でも調達してきましょうか?」  一番歳下の発羅津玄喜氏が、自分が座る前に気を利かせて、皆にそう訊くのでありました。「亡者様は何をお飲みになりますか?」 「私はコーヒーをホットで。若しあるなら、ブラックをお願いします」 「承知しました。補佐官さんは?」 「私は、コーヒーは最近胸焼けがするから、ホットの日本茶を」  補佐官筆頭が未だコーヒーを飲んでもいないのに胸を摩りながら応えるのでありました。 「俺は冷たいコーヒーの微糖のやつ」  これは逸茂厳記氏のオーダーであります。 「判りました。それじゃあ一っ走り行ってきます」  発羅津玄喜氏はそう云うと、きびきびと入口の方に小走りするのでありました。 「まあ、未だお日様が高いし、これから準娑婆省で重要な用件が控えているのですから、ここでお酒を飲む、なんと云うわけにもいきませんよねえ」  発羅津玄喜氏の後姿を見送りながら、拙生が軽い気持ちで云うのでありました。 「お酒がお飲みになりたいので?」  補佐官筆頭が真顔で訊くのでありました。 「二三時間の船旅と云う事ですので、船酔いする前に酒に酔っておく方が良いかなと、これから先の自分の行く末も考えないで、ふと不謹慎に思っただけです。いや亡者は酒には酔わないか。ま、車酔いはすると云うから、船にも酔うかも知れないと思いましてね」 「いや、三途の川は娑婆の海とは違って波嫋やかですから、船は殆ど揺れませんよ」  補佐官筆頭が拙生の杞憂を柔らかく掃うのでありました。 「ああそうですか。そう云えば前に乗った時、確かに殆ど揺れませんでしたかな」 「若しどうしてもと云う事でしたら、我々は仕事中ですから控えますが、亡者様はお酒を召しあがられて結構ですよ。クルーに頼めば、屹度調達出来るでしょうし」 (続)


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