このブログの記事は、以前から機会があったら紹介しようと考えていた、昭和の先輩が所属しておられる組合H.Pからの転載記事です。( 昨年8月11日の日付の記事です )
日本が再スタートをした頃
新宿
昭和21年、終戦から間もない頃の新宿駅。全てが灰燼と化し、ホームの向かい側まで見通せるあっけからんとした光景。真新しい木口の造りは仮設の改札だろうか。
一日当たりの乗車人員76万6000人、日本一どころか世界一乗降客数が多い駅としてギネス世界記録に認定されている新宿駅も、ここからの再スタートだった。
ディミトリー・ポリア氏
撮影者のディミトリー・ポリア氏は、アメリカ軍GHQの専属カメラマンです。食料も事欠く時代、カメラ・フィルムなどほとんど入手困難の中で、氏はコダックのカラーフィルムで戦後の日本を記録撮影している。白黒写真で見慣れた者にとって、公開されたカラー映像はそれだけ鮮烈で生々しく、終戦の頃の日本のイメージが一変したのを覚えています。私ら日本人にとっても貴重な映像資料と言えます。
服部時計店
銀座4丁目交差点、服部時計店( 和光 )ビル前。建物はアメリカ軍に収用され、ドルのみが使えるPX ( 軍専用のスーパーのようなもの )になっている。道路標識も英語表示に代えられた。
橋
神奈川県から東京都に入る多摩川に架かる橋、たぶん丸子橋だろう。立っている右側の女の子のセーラー服にモンペというのは、この当時の娘さんによく見られた服装だそうだ。
カメラを引いて空を大きく入れたこの写真は、何となく雰囲気があって、この当時の空気感まで漂って来る。
札幌駅前
記録撮影は北から南まで日本各地くまなく行われた。これは札幌の駅前の光景。左にずらり並んでいるのはシューシャイン「靴磨き屋」さんです。
子供連れの方は、俯き顔なので分からず、地味な服装から最初お孫さんを連れたお婆ちゃんと思ったが、たぶんお母さんだろう。(失礼) この当時、家並み・看板・人の服装、どれも派手な色彩が少なく、子供の外出着「よそいき」の赤だけがひと際鮮やかだ。
京都
聖護院八つ橋の看板から京都です。やはり赤い看板が効いている。( コダックはカラーフィルムの開発に際し特に赤の発色に腐心したと、聞いたことがある)しかし、食い物の上に殺虫剤の看板とは大胆な取り合わせです。
地方都市
場所は不明。橋は今はほとんど姿を消した木橋です。
オカッパに赤いセーターの女の子はたぶん姉妹だろう。二人とも洒落たサスペンダーを着けている。
右端で子供たちに目を落としているのが、撮影者のドミトリー・ポリア氏。
左の女の子が兵隊さんから受け取っているのはチューインガムだろうか。
爆弾
これはポップコーンの製造機です。右手の男性の方が扱っている圧力釜に、米・モロコシを入れ加熱、一気に圧を抜くと、左手の南京袋に膨れ上がった米・モロコシが弾けて飛び出してくる仕掛けです。当時、米は配給制だったので商いの方は原料の米は持ち込まず、家々から少量の米を持って駆けつけた人が、製造だけをお願いするシステム。
イベント性が高く、今でも通用する商いのような気もしますが、難点は音です。圧を抜く時に、それこそ腰を抜かすほどの馬鹿でかい爆音がするので、騒音に煩い今は苦情が必ず出ることになる。
姉弟
着るものに事欠くと古い和服・風呂敷・手拭い、と何でも動員された。今で言うパッチワークです。
日差しが眩しいのか渋い顔のお姉ちゃんが着ているのは、母親が若い頃の着物か子供着を洋装に仕立て直ししたものでしょう。ファッションには詳しくないので分かりませんが、なかなかの腕のものではないでしょうか。
高級バー
カウンターのママさんが、これだけギュウ詰めのバーは今まで見た事がない。(笑)
たぶん撮影という事で女性客もカウンターに入れたのでしょう。青い眼の女性客も一人おられる。
カラー写真で見ると今どきの飲み屋さんとさほど変わらないので、これが高級バーか?、と思われる輩もおられるかも知れないが、後ろの棚のウイスキー瓶を見る限りただの飲み屋じゃありません。
何しろ、アルコールならメチルまで飲んだ時代、と先輩方から聞いております。
焼酎が精々、日本酒の二級が超高級酒だった頃です。
私はふだんは焼酎か日本酒で、洋物の高級ウイスキーは未だに縁がありません。
いちどホワイト・フォックス( ホースじゃない )という一升瓶の国産ウイスキーがあって、嘘か ! と、思わず呟くほど安かったので、買って皆で飲みましたが、二日酔いは半端な代物ではなかったです。
女子寮
皆さんの顔がリラックスしていて、とてもいい写真です。
私のところに突然外国の方が来て、「皆さんの写真を撮ります。さあ、スマイル!」と言われ、直ぐにこんな自然な微笑みは恐らく無理でしょう。
木村伊兵衛さんという高名な写真家の方は「スナップ撮りの名手」と言われたそうですが、この方は、カメラを向けた相手に余り気配を感じさせない不思議な方だったそうです。
スナップ写真は写真のテクニック以前に、撮影者の人柄も決め手になるような、そんな気がします。
笑顔
恐らくカメラのこちら側でディミトリー氏が、覚えたての日本語で何かジョークを言ったのだろう。カメラに向かった人たちの誰もが屈託なく笑っている。
この当時の人は戦争で大事な身内を失した人が多い。自分の母親・兄弟・子供さん・・、本来ならここで一緒になって笑っているかもしれない人たちのはずだ。が、そのことを忘れ、だれもが自然にこみあげた笑みを浮かべている瞬間。
人の心で撮った写真はピントが合っていようがいまいが、私らに何かを感じさせてくれる。
お巡りさん
こちらは官邸を警備中のお巡りさん。さすがに視線が厳しい。
この年から、それまでの野暮ったい制服がご覧のようなアメリカン・スタイルになった。なかなか格好良い。
大きな警察署は署内に柔道の道場を持っています。私は近所の仲間と一緒にそこで柔道を習い始めましたが、制服を脱いだ警察官の方は気さくで面倒見の良い方が多かった記憶があります。
ジープ
ディミトリー・ボリアさんはこの後14年間に渡って日本の各地で記録写真を撮り続けた。写真映像だけでなく、16mm映画だったと記憶しますが大量の記録映画も残している。これもカラーで、以前NHKが特集番組として放映したはずです。
写真集は過去に数冊出版されていますが、「GHQが撮影した戦後日本」等で検索すれば詳細が分かると思います。
卓袱台
この写真はディミトリーさんが撮ったものではありませんが、当時の典型的なご家庭。台所・食堂・居間・客間と全てを兼ねた、いわゆる「茶の間」の写真です。
前に置かれているのが、あの「巨人の星」の親爺さんが癇癪を起こすとひっくり返す卓袱(ちゃぶ)台です。
冷蔵庫・電気釜・レンジ、また、TV・クーラー、パソコンは勿論、何にも有りません。唯一ある電気製品は電灯とラジオだったはず。省エネもいいとこです。
配給の米やら魚のタラやら、有るものでその日々を賄うだけで、献立で頭を悩ますどころじゃない。
その日暮らしで精一杯だから、たぶん老後の心配など考える余裕も無かったはず。
そんな中、お母さんが呆気からんとしておるのは、たぶん向こう三軒・両隣り「何も無い」境遇は皆さん同じ、お互い様だったからでしょう。
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