私の大好きな歌の一つに、一休禅師の次の歌がある。 『年毎に 咲くや吉野の 山桜 木を割りて見よ 花の在りかを』 この一休の歌は、桜の花の木を割ってみても、桜の花がなぜ毎年咲くのかということはわからないと言っている。つまり、どんなに分析してみても、桜の花がなぜ咲いては散り、散っては咲くのかということは理解できないと言うのだ。生命の不可思議は現代も解明されていない。 次の詩も大好きな詩である。 年年歳歳花相似 歳歳年年人不同 『代悲白頭翁』 劉廷芝 からの抜粋 この詩は毎年花は同じように咲くが、人間は毎年顔ぶれが違うというを言っている。いかに人の命のはかないことか。はかない命であればこそ、大いに楽しみたいものだ。 我々はどこから来てどこへ行くのか。これが人間の根源的な問いである。どこにも模範的回答はない。これを問い続けることこそが生きるということの意味だと思うのであるが、そうではないという意見もあるだろう。 ここで私が大好きな詩をもうひとつ。 勸君金屈巵 満酌不須辭 花發多風雨 人生足別離 『勸酒』 于武陵 この盃を受けてくれ どうぞなみなみつがしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ 有名な井伏鱒二の名訳である。『厄除け詩集』より。ただし、表記を改めた 一回限りの人生を楽しまないで過ごすことはしないが、人生は四苦八苦に満ちていることも忘れない、というのが大人の生き方であろう。されば、苦渋に満ちた顔ばかりせず、笑って残りの人生を過ごして行きたい。 一方、まだ若い人たちには人生の四苦八苦の中でも最大のイベントである死のことなど念頭にないだろうから、ある日突然死に神が訪問すると、狼狽するのである。 『昨日まで人のことかと思いしがおれが死ぬのかそれはたまらん』 という太田蜀山人の狂歌がある。 生きている人間にとっては、人間の死とは常に「他人の死」であるから、来るはずがないと思っている「自分の死」からは常に顔をそむけて生きている。 「自分の死」を見つめることこそが無常を感じ取るもっともよい方法であり、よりよく生きるための近道ではないかと思うのだが、長生きこそが自分の目的だと語る人が多いのはなぜだろうか。 生きているのではなく、生かされているのだという思いに至れば、長生きは目的ではなく結果に過ぎないのだと理解できるのだが、そんなことさえ気が付かない長生きの欲望に取り憑かれた人がいるのは滑稽としか言い様がない。
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