上巻で数多く集めた臨死体験を、下巻でどう料理するかです。結論はないと思うのですが、立花隆がどう含みを持たせるかには興味があります。
【地獄八景亡者戯】
面白いのは、民族による臨死体験の違いです。三途の川とお花畑は欧米の臨死体験にはあまり登場せず、日本独特のものだそうです。逆に、神と出会ったり、おびただしい光に包まれるという体験は、キリスト教世界ではポピュラーですが、日本には少ないようです。この世とあの世の境界線も、日本では「三途の川」ですが、欧米では門であったりトンネルであったりします。
日本の臨死体験には「閻魔さん」が登場するんですね。落語『地獄八景亡者戯』にも閻魔さんが登場するくらいですから、日本に根付いた文化?でしょう。インドの臨死体験にも、この閻魔さんの原型ヤマラージャが頻繁に登場します。
つまり、臨死体験をグローバルにみると、民族によってパターンが異なることから、やはり脳内現象ではないかということです。アメリカのあの世、日本のあの世、インドのあの世、があるというのも妙な話しですから。ところが、著者は上手に逃げます。つまり、臨死体験の実相はひとつなのだが、民族の文化と言語のフィルタがかかると、閻魔さんが登場したり、神が登場したりするというのです。そうかなぁ?立花さん。
【ウィリアム・ジェームズの法則】
著者の“のらりくらり”した書きっぷりは下巻でも変わりません。それはそうでしょう。下手に「あの世はあった!」とでも書こうものなら論壇から追放、以降執筆依頼は来ませんね。「臨死体験は脳内の幻覚だ!」と書けば本書は全く売れないでしょう。
で立花先生のとった手法はリドリー・スコットの『エイリアン』の手法です。何かというと、「出そうで出ない」。ホラーは、ゾンビなり幽霊が出そうで出ない宙ぶらりんの状態に読者や観客を置いて、彼等の想像力を刺激して恐怖を煽り立てます。
立花さんは、痩せても枯れても知識人。読者を宙ぶらりんな欲求不満に置いて逃げ出したりはしません。コリン・ウィルソンにインタビューして、この宙ぶらりんこそが事の本質なのだと語らせます。
超常現象を信じたい人には信じるに十分な証拠が出る一方、信じたくない人には否定するに十分な曖昧さが残る。
「ウィリアム・ジェームズの法則」です。読者としては、コリン・ウィルソンがこういうのだから、そういうものか(どういうもの?)と納得し、「法則」まで手に入れて満足します。
【シルヴィウス溝】
「感覚遮断」あたりから面白くなります。臨死体験は、死の瀬戸際まで行って起こる体験です。殆ど死んでいるのですから、肉体のあらゆる感覚は無くなり、脳だけが生きている世界です。これに近い状態を人工で作ってやればどうなるのか、という実験のなかで生まれたのが「隔離タンク」です。音と光を遮断し、身体と同じ比重で体温と同じ液体で満たしたタンクに浮くと、「変性意識状態」になって臨死体験と似た体験が訪れるというものです。立花センセイは自ら隔離タンクに入り、「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの真髄に迫り、意識と肉体がズルッと10cmずれる体験までします。つまり、「臨死」でなくとも、臨死体験が可能だということです。
続いて出てくるのが側頭葉にあるシルヴィウス溝です。ここの在る部分を刺激すると、体外離脱が起きたり、自分の過去が走馬灯のように現れたり、美しい花園、光、神、もう臨死体験はあらかたこのシルヴィウス溝の刺激で体験出来るというのです。
とここまで読むと、センセイは脳内現象説に読者を引っ張って行こうとしているな、となります。但し、シルヴィウス溝の仕組みが何故存在するのか、何故死にゆく人間にこうした体験を脳内でさせる必要があるのか、という疑問は残ります。
で、立花センセイの結論はというと、臨死体験は99%脳内現象説だという立場に立って、1%の疑問を残しながら、
生きてる間に、死について、いくら思い悩んでもどうにもならないのに、いつまでもあれこれ思い悩みつづけているのは愚かなことである。生きてる間は生きることについて思い悩むべきである。
だそうです。これは、映画『ヒアアフター』の結論と同じなんですね。ナンダそれは、と思わないでもないですが、延々900ページにわたって読者を引っ張っておいて、「大山鳴動して鼠一匹」の感がなきにしもあらずですが、結論はコレです。。
暑い夏の夜の「怪談」としては、下手なミステリーよりお薦めです。