太夫人周(たいふじんしゅう)との奇縁によって曹騰(そうとう)は、父・曹節(そうせつ)の思惑通り、幼少の宦官(かんがん)として宮中(洛陽城)に入ることとなった。
(ここで洛陽城の解説〜光武帝(こうぶてい)が造った南宮(皇帝の公的な空間)と第二代皇帝の明帝による北宮(私的な空間)及びその他の霊台(れいだい)、明堂(めいどう)、辟雍(へきよう)、大学(太学・たいがく)など建物とそこでの儀式の解説がつづくが省略)
そもそも後漢時代の洛陽城を精査することはもはや不可能なため、宮城谷氏は、曹騰はおそらく北宮で皇子に仕えることになっただろうと想像する。
この年、鄧(とう)太后の摂政が続くなか、安帝は24歳であり曹騰が仕える皇子の保(ほ)は3歳になっていた。
同じ年、涿郡(たくぐん)太守であった楊震(ようしん)は中央に召しかえされ、太僕(たいぼく)となり、すぐに太常(たいじょう)へと昇進した。
これは、鄧太后と兄の鄧騭(とうしつ)に推挙されて九卿(きゅうけい)の位にまでのぼったことを意味している。
〜「諸 賢」三国志第一巻 (51-53頁)<最初へ> <前へ> <次へ>
<参考資料> 洛陽城

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第7回・第一巻「諸 賢」〜 洛陽城
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