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ゼファニヤ書 2章1~7節

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<主を求めよ。主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた、この地の全ての人々よ、恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。主の怒りの日に、あるいは身を守られるであろう。(3節)> 先日の伝道礼拝には「チラシを見て来ました」と言われるご夫婦がおみえになり、とてもうれしかった。マンションの多くは入ることが出来ず、ポストがあっても「チラシお断り」の張り紙があり、「どうせ、読んでくれないだろう」と、肝心な時に神様への信頼を放棄していたことを反省した。 ゼファニヤは滅びの預言だけでなく、救いの預言も語った。彼は主の言葉を語ることによって、何とかして南王国ユダの人々が再び真の主を信じる信仰に立ち帰るように、そして、主の怒りから逃れることが出来るようにと強く願った。 伝道礼拝の説教は、1630年、イギリスからアメリカ新大陸に渡る船が、いよいよ大陸を目の前にしての甲板で語られた、歴史に残る説教の話から始まった。 その説教は、私たちはこれから新しいエルサレム、すなわち山の上の町を、それは「キリスト教的愛徳の模範」となる信仰共同体を新しい地に建設する事。神は私たちが新大陸に上がるにあたり、正義を行うことを命じられている。 私たちは兄弟愛で結ばれ、贅沢を慎み、イエス・キリストに従う者である。私たちはイギリスを逃げる者、私たちに徳はない。けれども、神は私たちに使命を与えられた。山の上の町、エルサレム建設、これが私たちの生きる目的として与えられている。 という、ピューリタンの精神を説いたものであった。上陸した人々は、信仰共同体を建設し、互いに助け合い苦難を共にし、主に感謝し祈り合った。しかし、時を経てその考え方は変わって来た。豊かな実りは、自分たちの努力に対して、神が下さった報酬であると考えるようになった。神を信じる信仰は同じだが、神の報酬という形になった。 功徳による報酬と考えてはいけない。私たちはどうなのでしょうか。信仰とは究極的な関心ごとなのです。信仰を利用して自分を高めようとするのをキリスト教は受け入れません。人格の全ての要素を含んでいる、その中心的なものが信仰なのです。人生における究極的な関心ごとは信仰なのです。と説教された。 信仰の実りは目に見えるものではないと教えられた。足腰が弱くなったので、せっせと歩いている。それは長寿のためではなく、この体は神のものだから、いつまでも神にお仕えできますようにであると認識した。 日曜日はお近くの教会で礼拝を http://www1.ocn.ne.jp/~church/japan.htm どなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。

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