<あなたのような神がほかにあろうか。咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない。神は慈しみを喜ばれるゆえに。(18節)>
ユダの王ゼデキヤは、自分の神、主の目に悪とされることを行い、主の御言葉を告げる預言者の前に遜らなかった。…祭司長たちも民と共に諸国の民のあらゆる忌むべき行いに倣って罪に罪を重ね、主が聖別された神殿を汚した。彼らは御使いを嘲笑い、その言葉を蔑み、預言者を愚弄した。「それゆえ、ついにその民に向かって主の怒りが燃え上がり、もはや手の施しようはなかった。」と列王記下は記す。
エルサレム崩壊は紀元前587年。バビロンの征服者はその民を守ることの出来なかったイスラエルの神を嘲笑った。神殿に火が放たれ、エルサレムの城壁は崩され、宮殿は灰燼に帰し、生き残ったものは捕えられ、バビロンに連行され捕囚となった。
嘆きの声を上げ、絶望する人々にミカは「わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。例え倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光」と主への信頼を人々に告げ、まことの悔い改めへと人々を導く。
「わたしは主に罪を犯したので、主の怒りを負わねばならない。ついに、主がわたしの訴えを取り上げ、わたしの求めを実現されるまで。主はわたしを光に導かれ、わたしは主の恵みの御業を見る。」と人々は応える。
彼らは自分たちを悲惨と捕囚へと追いやったまことの敵は自らの過ちであり、主への不服従であったことに気付かずにはおれなかった。
主の祈りの「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」の御言葉は、「これは、私たちと全ての人が自分たちの意思を放棄して、ただあなたの善き御意志に何一つ抗弁せず服従させて下さい。という事です。」と教えられ、主のゲッセマネの祈りが示された。
時に従い、枝から離されていく落葉のように従うのだと。しかし、人間はそうはいかない。身の周りの物をすべて捨てて禅僧のようになったとしても、一度身に着いた知識は葬り去ることは出来ず、目や耳で確認する事も出来ない「主」に服従できるのだろうか。
自分にはまったく自信がない。しかし御言葉は「自分の力でそういうことが出来ると思うな」と警告し、祈りを通して、従順の道が与えられるのだと約束される。
服従し得なかった人々に「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」と慰めの言葉が与えられる。
日曜日はお近くの教会で礼拝を http://www1.ocn.ne.jp/~church/japan.htm どなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。
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