「掴まれた部分をそんなに強張らせていたら、相手の手は反発しようとするだけで、ちっとも肩にくっついていてくれやしないから」 「お、押忍」 来間は途方に暮れたように少し声を上擦らせるのでありました。確かに拳と肩との密着の匙加減と云うのか、関係の機微が肩持ちの技の難しいところではあります。 万太郎は来間にその辺りの肩の感覚を掴み取らせるために、敢えて来間の体が動いても密着を切らずに自分から受けとして誘導的に動いて見せるのでありました。稽古者同士が声を交わすのは厳禁でありますし、こう云うものは言葉であれこれ説明するよりは、受けが上手く誘導してあげる方が理解が早いと云うものであります。 万太郎の配慮の動きに来間が、おや、と云う表情をするのでありましたが、自分の肩と相手の拳との間の関係がどうあれば意図通りに上手に相手を動かすことが出来るのか、あくまで感覚としてと云うだけではありますが、何となく実感出来たようであります。しかしそれはあくまで受けに助けられた上で感覚として実感しただけで、その感覚を技の習得のために活かすかどうかは来間の取り組み次第であるのは云うまでもない事であります。 「はい、次の段階」 道場に寄敷範士の声が響くのでありました。門下生達はその声にそれまでの稽古を止めて急いで下座に下がるのでありました。 「次に今の、崩し、投げる、と云う二挙動の動きを一挙動で行う」 寄敷範士は前に出た万太郎にもう一度肩をしっかり掴ませてから、崩してから投げるまでを間を切らずに一気に、しかし比較的ゆっくりした速度で行うのでありました。これも前と同じに角度を変えながら数本繰り返して見せるのでありました。 前段階の二挙動の場合でも納得出来るような動きが出来なかったのだから、来間は益々万太郎の体を持て余すのでありました。そういう時は竟、膂力か動きの速さに頼って仕舞うのでありますが、仕手のそう云う稽古の粗さを戒めるのは、偏に受けの速度上の抑制的で誘導的な動きと、理合いから決して逸脱しないぞと云う固い意識であります。 これは実戦即応の稽古ではなく、あくまで技を自分の体の中に錬り上げるための組形稽古であると云う、受けのブレのない硬い意志がこういったタイプの稽古の実質を保証するのでありますから、受けの、稽古に取り組む時の胆の据わり方も試されるとも云えるでありましょうか。確かに稽古の意味を深く理解した受けと稽古するのは、表面上の面白おかしさ等問題にもならない程、慎に以って武道的な楽しさに溢れた稽古になるのであります。 来間は万太郎の崩しと投げに面白いようにあしらわれて、仰向けに倒されるのでありました。来間が仕手をやるとこうは上手く技が運ばないのでありますが、これは万太郎と来間の体術の稽古量に依拠するところの格の違いでありましょうから、致し方ないと云うものでありましょうし、その技量の格差にたじろがずに何度も何度も額の脂汗を拭いながら万太郎の肩を掴んでくる来間に、万太郎は秘かに末頼もしさを感じるのでありました。 「はい、次の段階」 暫くするとまた寄敷範士の声が道場に響き渡るのでありました。 (続)
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