<ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め、イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いて一つにする。彼らは人々と共にざわめく。(12節)> 「広島原爆公園に置かれた石碑の中に「消された名前」があります。学校から勤労奉仕に駆り出されて被爆。クラス全員の名前を刻んだら、生存者が混じっていました。たまたま学校を休んだお蔭で被爆は免れた人たちでした。 しかし、この人たちが名乗り出たのは、石碑建立からかなり時間が経った後でした。死者に対する後ろめたさを抱えたまま、この人たちは戦後を生きなければならなかったのです。」と白井牧師は書き出される。 今日の箇所は「ユダの混乱」とタイトルがついている。アッシリアとの戦いの中でかろうじて戦災を免れた人たちは、それは神の加護によるものだと考えた。自分たちが信仰を固く守ったからだと。 勝者は「昨日までわが民であったものが、敵となって立ち上がる。平和なものから衣服をはぎ取る。戦いを避け、安らかに過ぎ行こうとする者から。彼らはわが民の女たちを楽しい家から追い出し、幼子たちから、わが誉れを永久に奪い去る。」と同胞から略奪した。 先日の連休は紅葉狩りに出かけた。バスの中から見える青空に誰かが「わたしたちの行いが良かったから神様がお天気にして下さったね。」と言った。良く聞きなれた言葉である。けれども、それはとんでもない誤った言葉で、傲慢な心を生む土壌であった。 自分たちの努力や行いによって戦災を免れたわけではなく「我らの背信にも関わらず」命が救われた。青空を与えて下さった。と受け止めるのだと白井牧師は説かれる。 東北大震災の体験談を何度か聞いたけれど、いちばん心が痛んだ話は、津波に流されるうちようやくすがりつくものが見つかり、なんとかそれを持った。けれど、自分の横を他の人たちが流されていくのに手を差し伸べることは出来なかった。と言って涙ぐまれた。 生き残ったけれど手放しでは喜べない辛さ。「どうして、自分は生きているのか」大震災の後次々報じられる美談の中で、どんなに苦しまれた事だろうか。 絶え間なく起こる災害や事故、事件。今「我らの背信にも関わらず」、自分がここに生きていることに後ろめたさを覚える。主はわたしに何を求めておられるのだろうかと。 日曜日はお近くの教会で礼拝を http://www1.ocn.ne.jp/~church/japan.htm どなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。
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