<その日、人々はお前たちに向って、嘲りの歌をうたい、苦い嘆きの歌を歌って言う。「我らは打ちのめされた。主はわが民の土地を人手に渡される。どうして、それはわたしから取り去られ、我々の畑が背く者に分けられるのか。」(4節)> 北王国イスラエルを滅亡させたアッシリア帝国は、その後ユダに攻め込み、エルサレムを包囲した。 アッシリアの王は部下を通して「ヒゼキヤ(ユダの王)に騙されるな。彼はお前たちを私の手から救い出すことは出来ない。ヒゼキヤはお前たちに、主が必ず我々を救い出して下さる・・・と言って、主により頼ませようとするが、そうさせてはならない。私と和を結び、降伏せよ。そうすればお前たちは皆、自分のぶどうといちじくの実を食べ、自分の井戸の水を飲むことが出来る。・・・」とユダの人々に大声で言った。 これを聞き、衣を裂き、粗布を身にまとい、神殿に上って主に祈るヒゼキヤを列王記下19章は記す。その祈りに主は「あなたがわたしにささげた祈りを私は聞いた。」と答えられたとイザヤは王に伝えた。その夜、アッシリアの陣営では18万2千人が死体となった。 軍は撤退したものの、現実のユダ王国は領土の大半を奪われており、エルサレムは裸同然であった。「それはサマリア陥落の前から続く『滅びに至る道』の一部であり、その道を見定めた所から、ミカの預言は語られていたのです。」と白井牧師は説く。 闘いの勝者は「彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人から家を、人々から嗣業を強奪する」。戦国時代を語る大河ドラマには、民衆が登場しないが、ほんとは、戦いの後、死体に群がり、その刀や鎧、衣服を剥ぎ、それらを糧とする者が多くいたことだろう。 古代パレスチナでの勝者は、その町を占拠し、畑も家畜も家も、働き手としての人間を奪うことさえ当たり前のことであったのかもしれない。 絶えない戦いにすべてを無くした者もいたが、自然災害と同様、災いを逃れた者もいた。人々の間に「裁かれなかった者。罪がなかった者」として、弱者と強者が生まれていた。 先日訪問した中学校の掲示板に、人権教育で同和問題のビデオをみた生徒たちの感想が貼り出されていた。その多くがこの事で傷つく主人公についての感想であったのは、残念だった。自分の下に弱者を置こうとする人間のもつ弱い心を子どもたちに教えてほしかった。 ボランティア活動でもよくある。弱者を作って自分を善人に仕立て上げようとする時が。 日曜日はお近くの教会で礼拝を http://www1.ocn.ne.jp/~church/japan.htm どなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。
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