「殺さないで!」 小さな声が響いた。 「なんだ? 誰だ?」 僕は思わず叫んだが、周りには誰もいない。 なんだよ、気味が悪い。僕が誰を殺すっていうんだ? 僕の性格は極めて温和で人からは「虫も殺さない」などと言われているのに。いまのは僕に向けた言葉か? 「殺してはだめ」 また聞こえた。どうやら頭の中で聞こえているらしいとそのときわかった。 頭がおかしくなったのだろうか? そんなわけはない。僕はしっかりしてるぞ。ただいまは少しだけ悩ましいと思ってるんだけど。 さっき、会議室で上司から押しつけられた仕事。ほんとうは別の人間が担当なのに、厭な得意先だからと手を離したそうだ。そのお鉢が僕に回って来たのだ。僕だっていまは手一杯だし、そんなことより誰かが厭だと言っているような不良得意先を引き受けたりはしたくない。 部下の責任はその上司がとるべきなのに、なんで僕に。でも仕方がない。上司からの命令なんだ。少々おかしな理屈であろうと命令は命令だ。僕はひたすら我慢する。我慢してきっと次にはいいことがあると期待するんだ。 お人好し。 妻からはそう言われたことがある。人から頼まれると嫌といえない。 あいつだってその恩恵を受けているんだ。家事は折半しているが、会社から帰っての家事は大変なんだ。あいつはパ^とだから僕より時間があるのだから、もう少し考えてくれてもいいのに。でも、そんな愚痴は言いたくない。だから黙って言うことを聞く。 終業時間間際になって同僚が話しかけてきた。 「なぁ、悪いけどこれ、A社に届けてくれない? お前の帰り道方面だろ? 頼むよ」 そんなもの、自分で行け、仕事だろ? 言いたいが僕は言わない。 「わかった」と言って封筒を受け取る。 また頭の中で声がした。 「殺さないで!」 なんだよ。僕は誰も殺したりしないよ。するともう少し語気の強い調子でまた声がした。 「そうじゃない、自分を殺さないで」 了 ↓このアイコンをクリックしてくれると、とてもウレシイm(_ _)m
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第三百三話_short 殺さないで
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