'宮本武蔵'
吉川英治
青空文庫
まず、お世話になった青空文庫にエールを。著作権を死後70年とすることに反対します。元本屋の息子としては日本の出版社の不利になるようで心苦しく、またそれなりのお仕事をされた方への著作権料問題もあると存じます。しかし、基本的に利益の大部分は独占的な一部のglobal企業( Web界の大物)がほぼ独占するようになる気がします。ジョナス・ソーク(wikipedia)の云うように、科学技術と云えど人類が生み出したものは本来人類共通の財産たるべきです。芸術関係では個人の方もデビュー前には自分の作品が一人でも多くの方に味わって欲しいと願ったはず。現在の日本では死後50年、それでよしとしませんか・・・?と云う訳で、吉川英治(1962年 9月 7日没)作品が青空文庫で読めるようになっていて宮本武蔵も掲載されている。今回 androidアプリ「A・文庫」のお世話になりはじめてスマホで読んだ(個人的には「扉」「窓の中の物語」などPC用が好み)。
吉川英治の「宮本武蔵」。これは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」同様、ある時代青年男子の道標となった小説である。先日退官されている元国語教師に、ある時期宮本武蔵は非常に強い影響を残しませんでしたかと尋ねた。僕も中学生時代(高校生時代に吉川英治全集が発刊開始)に店頭に売れ残っていた愛蔵版を読んで影響を受けた。先生は凄かったねぇとのことだった。影響を語る前に、ある時期って所について。新聞連載が1935年 8月23日から1939年 7月11日であり太平洋戦争前(戦前と書いたが中学生など若い方にはピンと来ないかと)である。本を読まれて影響受けることは何時でもあっただろうが、一つの考え方として映画を参考にしては如何だろうか?僕たちの世代なら内田吐夢・中村錦之介全5巻(1961-1965)、まあ加藤泰・高橋英樹(1973)も武蔵人気があり作られたならその年頃までってことだろうか?大雑把に昭和10年から昭和50年だ(まだ完成してない時から映画がつくられていた頃)。
戦後まで影響あったことを考えると人々(ほぼ男性)を魅了したのは小説の結論、武蔵が巌流佐々木小次郎と試合して勝利を収めるのは小次郎が信じていたものは、技や力の剣であり、武蔵の信じていたものは精神の剣であった。それだけの差でしかなかった
ではないだろう。太平洋戦争で日本人は精神力だけでは物質の力に負けると身に沁みたのだから。ずばり武蔵の成長が男子の成長に望ましいものと受けとめられたのだろう。
武蔵はまず強くなることを求める、そして道を求める。茶道・剣道・柔道の「道」である。武蔵は多くの才能ある人々に遇い「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」的境地で自己を高めようとする。大好きな場面(吉岡伝七郎との勝負後)初代吉野太夫が牡丹を焚き他の客が帰った後、吉野太夫の言葉。この通り、琵琶の中は、空虚も同じでございましょうが。では、あの種々な音の変化はどこから起るのかと思いますと、この胴の中に架してある横木ひとつでございまする。この横木こそ、琵琶の体を持ち支えている骨であり、臓でもあり、心でもありまする。――なれど、この横木とても、ただ頑丈に真っ直に、胴を張り緊めているだけでは、なんの曲もございませぬ。その変化を生むために横木には、このようにわざと抑揚の波を削りつけてあるのでございまする。――ところが、それでもまだ真の音色というものは出てまいりません。真の音色はどこからといえば――この横木の両端の力を、程よく削ぎ取ってある弛みから生れてくるのでございまする。――わたくしが、粗末ながらこの一面の琵琶を砕いて、あなたに分っていただきたいと思う点は――つまりわたくし達人間の生きてゆく心構えも、この琵琶と似たものではなかろうかと思うことでござりまする
。
吉野太夫は横木を腹に収めた人は少ない、今の武蔵ならきっと吉岡一門にああ、これは危ういお人、張り緊まっているだけで、弛ゆるみといっては、微塵みじんもない。……もしこういう琵琶があったとして、それへ撥ばちを当てるとしたら、音の自由とか変化はもとよりなく、無理に弾ひけば、きっと絃いとは断きれ、胴は裂けてしまうであろうに……、こうわたくしは、失礼ながらあなたのご様子を見て、密ひそかにお案じ申していたわけなのでござりまする。
と諭す。
武蔵は柳生、本阿弥光悦、吉野太夫など一流の人たちだけでなく市井の人にも同様の驚きを感じる。そして我以外皆我師で精進し、道を求めて行く。でも僕は読みながら、宮本武蔵って(お通との関係、因縁の小次郎対決、その他あっても)こんなにも剣の道だけを求める本だったかな、つまらないと思っていた。そして江戸を過ぎ伊織との出会いの頃には、
この頃からのことである。――武蔵は剣に、おぼろな理想を抱き始めた。人を斬る、人に勝つ、飽くまで強い、――といわれたところで何になろう。剣そのものが、単に、人より自分が強いということだけでは彼はさびしい。彼の気持は満ち足りなかった。 一、二年前から、彼は、 ――人に勝つ。 剣から進んで、剣を道とし、 ――おのれに勝つ。人生に勝ちぬく。 という方へ心をひそめて来て、今もなおその道にあるのであったが、それでもなお、彼の剣に対する心は、これでいいとはしない。 (真に、剣も道ならば、剣から悟り得た道心をもって、人を生かすことができない筈はない) と、殺の反対を考え、 (よしおれは、剣をもって、自己の人間完成へよじ登るのみでなく、この道をもって、治民を按じ、経国の本を示してみせよう) と、思い立ったのである。だから物語がこのように展開してそうだそうだと納得したが、はじめて読んだ時には仕官できなかった後、どうなったか覚えていなかった。実際仕官云々の場面頃から武蔵の自己否定(正しくは自己回帰)があったのだ(牢の中で頭を冷やしたのだろか?)。読み取っていなかったが、中学生の頃の僕に自己否定なんて言葉はなかった。 (^^;
「――とはいえ、自分も一時は野心を抱いた。しかしわしの野望は、地位や禄ではない。烏滸がましいが、剣の心をもって、政道はならぬものか、剣の悟りを以て、安民の策は立たぬものか。――剣と人倫、剣と仏道、剣と芸術――あらゆるものを、一道と観じ来れば――剣の真髄は、政治の精神にも合致する。……それを信じた。それをやってみたかったゆえに、幕士となってやろうと思った」と元の求道精神に戻るわけだが、これが素晴らしい。むしろ戦争に敗れて大陸経営の夢破れた日本男子に何が必要かを予言したようなものだ(スマン、拡大しすぎた結果論だ)。先の一文は冗談として、やはり自己否定があって求めるものは一段と昇華される、その生き方が日本男子の胸を熱くすることが出来たのだろう。男子たるもの、青春期に(竜馬がゆくと伴に)一度は読んでおくべき小説だろう。 しかし、部分部分には納得できないことも勿論ある。お通と武蔵の関係など現在の読者には納得できないと思う。バガボンドではどう描かれているか知らないが一発もやらないなんて(失礼 m(_ _)m )、それでお通が慕い続けるなんてあり得ない。また、僕は朱美のようなタイプに弱いと思っているが、最後の亭主がアレか?僕のほうがまだマシだと思う。テス(トーマス・ハーディ)のような苦悩もない代わりに、生活力的にどうしようもない亭主を与えて良しとして欲しくないなあ。 最後に。描かれる時代は関ヶ原から大阪の陣までの期間。英治はすでに民衆が安定を求めて徳川への流れがあると何回か書いている。世の流れを全面的に肯定するとその後平和であっても自由を奪われた時代になって行く。まあ丁度この小説が書かれた頃は大陸への流れがあった頃だ。小説では決して大陸へと書かれていないが、流れに乗って戦争に突入していったことも忘れてはならない。経済発展を願う流れたあったからと云って、身を任せてはならないだろう。 日本人の勤勉さって、この求道精神(極めるってこと)があったからかなあ。それは取りも直さず小学校中退で日本の代表的作家と成長した吉川英治に重なる物語だ。 P.S. 久しぶりに書くと疲れる。でも一つ書いたから、気楽にもう三つほどアップしようかな?
「何者かの、讒訴があったのか、残念でござりまする」
「まだいうか。穿きちがえてくれるな。一時は、そんな考えも抱いたことは確かだが、その後になって――殊に今日は、豁然と、教えられた。わしの考えは、夢に近い」
「いえ、そんなことはござりませぬ。よい政治は、高い剣の道と、その精神は一つとてまえも考えまする」
「それは誤りはないが、それは理論で、実際でない。学者の部屋の真理は、世俗の中の真理とは必ずしも同一でない」
「では、われわれが究めて行こうとする真理は、実際の世のためには役立ちませんか」
「ばかな」
と、武蔵は憤るが如く、
「この国のあらん限り、世の相はどう変ろうと、剣の道――ますらおの精神の道が――無用な技事になり終ろうか」
「……は」
「だが深く思うと、政治の道は武のみが本ではない。文武二道の大円明の境こそ、無欠の政治があり、世を活かす大道の剣の極致があった。――だから、まだ乳くさいわしなどの夢は夢に過ぎず、もっと自身を、文武二天へ謙譲に仕えて研きをかけねばならぬ。――世を政治する前に、もっともっと、世から教えられて来ねば……」