『銀河鉄道の彼方に』高橋源一郎著(集英社、2013年6月刊)
本作が「本歌」としている、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、勤労少年ジョバンニの、ほぼ心象風景といっていい世界を、賢治の生きた日本の東北の村を、どこか、ヨーロッパチックに、さらに言えば、イタリアチック(ジョバンニなどという名前がイタリア名である)に仕立てたものである。けれど、子ども時代の心の動きは、リアルなもので、その昔、どこにでもあり得た、「子どもの水死」を、痛々しいまでの透明感と美しさで描いている。この物語を読んだら、人は、いてもたってもいられず、なにか、自分で、自分の物語を紡ぎ始めてしまうかもしれない──。
日本の職業作家である高橋源一郎は、そういうものを十分承知のうえ、賢治が死んで、この世にいないことをいいことに、そして、世間の読者が、思ったほど原作を読んでいないことをいいことに、この作の魅力をごっそりいただいて、あとは、勝手な、今風の話題を支離滅裂(コラージュという、言い訳もできるが)に綴り合わせ、「メタ小説」に仕上げている。
事実、冒頭数ページは、『銀河鉄道の夜』まんまである。また、本書の厚さに、そそっかしい読者は、「大作」と信じてしまうが、550ページほどある本ではあるが、400字詰原稿用紙にして、800枚あるかどうか。後半へいけば、頻繁な行替え、かなりの空白が目立ち(笑)、なんと、活字も、劇画のようにでかくなっているページも何ページもある(それらのページは、50字くらいしか入っていない)。私は、この作者に、何度もはぐらかされているが、それでも、今回もむなしい期待を抱いた。冒頭が、「まんま」なら、せめて最後に、もう一度、G**が現れて、原作を「脱構築」してくれるのではないか? しかし、毎度の、(ここだけは)日本文学的感傷っぽい終わりである。終わりは、「宮本輝」である(笑)。なんでか知らないが、毎回、こんなである。たぶん、この作者の体質だろう(笑)。なるほど、「メタ小説」なので、途中、「原稿を書く私」も出てくる。しかし、それは、クサい物語に内包されてしまうので、ほんとうのメタなのかも怪しいものである。