夏休みの宿題で読書感想文を出さなきゃいけない人もいると思いますが、 どうせ出さなきゃいけないなら、 さっさと仕上げて、あとは気楽に遊ぶ、 というのが賢いやり方ですね。 かといって、 「出しゃいいんだろ出しゃ。書きゃいいんだろ書きゃ、オラー」 「おれは小学校以来、感想文は大の苦手なんだ、ケッ」 みたいな、イヤイヤ・オーラ丸出しの書き殴りはいただけません。 どうせ書くなら、人にはちょっと書けない、 おおっ、と先生がうなるかもしれないような、 ユニークで面白い文章を書いてみたくありませんか? 「感想文は苦手」という人でも、 というか、そういう人のほうが案外いいものが書けるんですよ。 もしそういうふうに自分をもっていければ 書くこと自体を楽しめるはずですし、 また結果として楽しいことがたくさんついてきますよ。 早い話が成績上昇、 先生・友人に一目置かれる、 書くことに自信がつく(日本語だけでなく英語などでも)、 読書の世界が広がる、etc.・・・ いいことづくめですね。 さて、それでは 「人の上を行く」ユニークな感想文は、どうしたら書けるのか。 いろんな方法がありますが、その一つに 「連想」を使うというのがあると思います。 つまり採り上げた本や作品の世界にとどまるのではなく、 そこから自分が「連想」した世界に飛び、 二つの世界のつながりや共通性・対照性などについて書いてゆくわけです。 自分の「連想」の世界は自分だけのものですから、 当然、ユニークなものが書けるはずですよね。 ただ、どんな「連想」でもいいかといえば、 もちろんそうはいきません。 犬が死ぬ物語を読んで、「自分も愛犬に死なれたときは悲しかった」と書いても、 (よほど文章が上手でないかぎり)すぐれた感想文にはなりません。 では、どんな「連想」ならいいのか。 それもいろいろですが、とりあえず今回紹介したいテクニックは、 採り上げた本や作品から、別の作品や作家に飛ぶ という方法です。 例として、太宰治の『人間失格』(1948)を採り上げてみましょう。 これはまさに 生まれて、すみません。 の世界で、この言葉そのものが『人間失格』に出てくるわけではないのですが (初期作品「二十世紀旗手」(1937)の副題に掲げられている文句です)、 作品のテーマを集約的に表わした言葉として持ち出してもいいでしょう。 とすると、ここから何が「連想」されるでしょうか。 「自分も生まれて、すみませんと思ったことがある」というのもアリですが、 その場合、よほどうまく書かないかぎり、 すぐれた感想文にならないのはさっきと同じ理屈です。 では何を「連想」するか。 生まれて、すみませんといえば、 産気づいた妻の生殖器に口をつけて、夫が大声で 「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ」 と尋ねる、という話を思い出しませんか。 すると腹のなかの胎児が 「僕は生れたくはありません。。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。 その上僕は河童的存在を悪いと信じていますから」 と答えるんですね。 そう、これは芥川龍之介の小説『河童』(1927)のサワリですね。 国語の教科書に出ていることもあるので、読んだ人も多いでしょう。 これが「連想」できれば、 あなたは『人間失格』または太宰から『河童』または芥川に「飛ぶ」ことができるわけです。 この胎児、まだ「世界」へ出て来ない前から 「世界」についてかなり知っていること、 いやそれ以前に言語能力をもっていること自体すでに不思議ですが、 不思議だらけのこの「河童国」では、どうってことありません。 生まれたときには白髪の老人で、 「それからだんだん年が若くなり」今や十二三歳の子供になっている 推定年齢百十五六の河童も出てくるくらいですから。 ブラピ主演の映画『ベンジャミン・バトン』も「連想」されますね。 フィッツジェラルドの原作は1922年で、まあ影響関係はないでしょうが、 近い時期に似たようなことを発想していたもんですな。 それはともかくとして、この「子供」に見える老河童も やはり出生前に「生まれてくるかどうか、一応父親に尋ねられ」たんだそうで、 「河童国」へ紛れ込んで来てしまった主人公(人間)の 人間界に戻りたいという願いを聞いて、 「出て行かれる路は一つしかない。 それはお前さんのここへ来た路だ」と告げます。 わしだって出て行きたいが、その「路」もまた「一つしかない」 と老河童は苦悩を突き抜けた、一種、空虚な口調でつぶやきます。 それすなわちわしの「ここへ来た路」・・・つまりは母親の産道。 そして、それはもう存在しない・・・という話になります。 さて、太宰と芥川の共通点といえば、 三十代の若さで自殺してしまったということがありますね。 『河童』と『人間失格』は、作者の自殺と同年の作品だという点でも共通しています。 それから、作品の最初に出てくる語り手が実は主人公ではなくて、 主人公の手記(物語)を紹介する形になっているという点も同じですね。 ついでにいえばこの形は、やはり教科書によくのっている 夏目漱石の『こころ』(1914)にも似てますよね。 そしてその主人公も自殺しますね(漱石はしてませんが)。 そのほかいろんな共通点・相違点を、 二つの作品を読み比べて、あるいはそれらについて調べることで、 どんどん抜き出してみればいいんですよ。 また調べるうちに、漱石とかフィッツジェラルドとか 意外な、面白いテーマにぶち当たるかもしれない。 それらともとの主題(ここでは『人間失格』)を並べることで 見えてくるものについて自分の思うことを書けばいいんですよ。 そんなふうにやれば、ある程度の客観性が保たれますから、 「ああ、悲しかった」「面白かった」だけの主観的な感想文とは 一線を画し、それらから水をあけるものになるはずです。 さあ、さっそく取り掛かってみましょう。 新しい自分を発見するかもしれませんよ。
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