内容紹介市立図書館で長いことウェイティングになっていた本が、このところ立て続けに自分の順番が回って来るようになった。僕の後にも多くの人がウェイティングになっていると思うと、ユーザーの権利としての2週間をまるまる手元に置いて有効に使うよりも、一刻も早く読んで返却し、次の人に回した方がいい。善良な小市民の僕はそう考える。 シゲマツさんの新機軸かな、という気がした短編集である。元々シゲマツさんは身近な人の死がもたらす自分や周囲の人々への影響、心の変化を描くケースが多い作家だった。父親か母親が心筋梗塞や脳溢血、事故などで突然帰らぬ人になったとか、クラスメートの自殺とか、その人の記憶がその時点でストップしてしまうのに対し、残された人々の時間はどんどん経過していく、そのギャップを描くことが多かった。もう1つは癌による親友や家族の死で、宣告を受けてから「その日」を迎えるまでに少しばかりの時間が残される場合、当事者は何を考え、残される人々に何を残そうとするのかを描いた作品が多い。 いずれも「死」を扱った作品で、自分がその当事者だったとしたら、やっぱりそう考えるだろう、そう行動するだろうという共感を抱くことがかなり多い。僕自身は作品を読んでそれほど泣いた経験はないが、一般には重松清は「泣かせる作家」という評価を受けている。 そんなシゲマツさんが、被災地の人々や、被災地を離れて東京に住んでいた人々を描いたらどんな作品を書けるだろうか。そんなことを以前から思っていた。 これまでの重松作品では、死が本人と周囲の人々の時間をストップさせるという描き方が多かったが、今回ご紹介する短編集では、災害は、犠牲になった方々だけでなく、残された人々の大切な過去すらも失わせる。起きたことは仕方がない、未来を見据えて頑張っていきましょうと言われても、今までそこで暮らしてきたという記録を全て押し流されたり、そこに戻ることが許されなかったりするのは簡単には受け入れがたい。また、同じ被災地といっても、高台の新興住宅地と沿岸の古い市街地とでは住民の被災の程度も違うし、中学高校を卒業してずっとそこに残って働いている人と、上京して大学に通い、そこで家族までもうけた人とでは、現実の捉え方が違う。個々の当事者とその家族にとって状況が異なるため、それをきめ細かく拾い上げてその心情を言葉に残しておく取組みは、もっともっと必要だと思う。 この作品集を読みながら、シゲマツさんには、震災や原発事故に直接的間接的に影響を受けた人々の心情を言葉に起こした作品、今後も書いていって欲しいと強く思った。
終わりから、始まる。厄災で断ち切られたもの、それでもまた巡り来るもの。
喪失の悲しみと、再生への祈りを描く、7つの小さな物語。
小学3年生、母を亡くした夜に父がつくってくれた“わが家"のトン汁を、避難所の炊き出しでつくった僕。
東京でもどかしい思いを抱え、二カ月後に縁のあった被災地を訪れた主婦マチ子さん。
あの日に同級生を喪った高校1年生の早苗さん。
ふるさとを穢され、避難指示の中で開かれたお盆の夏祭りで逡巡するノブさん。
かつての教え子が亡くなったことを知り、仮設住宅に遺族を訪ねていく先生。
行方不明の両親の死亡届を出せないまま、自分の運命を引き受けていこうとする洋行――。
未曽有の被害をもたらし、日本中が揺れた東日本大震災――。
それぞれの位置から、それぞれの距離から、再生への光と家族を描いた珠玉の短篇集。
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『また次の春へ』
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