以前にも映画は取り上げたが、今度は原作を取り上げる、
歪んだ英雄「厳石大(オム・ソクテ)」は、人生の後半で足を踏み外しているが、私の短い人生経験(偏見)では、何人かの彼のような輩は、案外人生の後半をかなり平凡に、そして仕合わせに過ごしているので、この展開には、私個人としては違和感を覚えざるを得ない。しかし、これは自分の思い通りにストーリー展開しない!私だけだけの苛立ちかも知れないが・・・・・。時代背景を考えると、著者は、厳石大を独裁者か両班(貴族階級)、そしてその他の生徒たちは、常人(一般民衆)という韓国の時代背景を描いているのかも知れない。そうすると、この秩序を崩壊させ、健全な社会にした教員は、朝鮮半島の何に当たるのだろう。韓国には、軍事クーデターはあったが、その後、民衆の地道な努力で民主化していったと記憶しているので、この教員のような存在は見当たらない。一種の「外圧」」、と考えたら良いのだろうか。
大らかな韓国人にしては、厳石大には、陰険な一面があるのはその時代のせいだろうか。また、著者はこの私小説に登場させた厳石大を怖れ憎んでこそいても愛情や好意など一切抱いていないように感じる。否、著者は、彼を憎んでいるのではなく、ただ冷徹に傍観しているだけかもしれない。また、主人公は、ソウルから外れた江原道など田舎で教育水準が低い、という偏見を持ち、かなりの「上から目線」で見ていることに、抵抗を感じる(否、不愉快である)。また、後半に、作者自身を、「一流の高校・大学を出て・・・・」とあるが、この直接的な表現も日本人の私には鼻につく。これは、日韓の文化と表現の違いかもしれない。
映画は、「少年時代」に似ている。厳石大と大原武(進藤武・竹下進)は、どこか共通している面がある。それは、カリスマ性・暴君というより、陰険・陰湿な面だ。最後に、劣等生のヨンパルが叫ぶシーンは、原作には見当たらない。
進藤武、大原武、竹下進は、同一人物、原作・マンガ・映画によって、名前が変えられている。
krause