拝み屋(5)
まだまだ時間はたっぷりある。霊体ってほんとに暇だしつまんない。暗くなって人をびっくりさせたくなる気持ちが何となくわかる。瞬間移動できれば、家に戻って私の部屋でくつろぐことができるのに………。
行くところも無く、信也君の部屋を尋ねてみた。うろつき回るなって注意したくせに、自分が暇を持て余してうろついているのがバレる。でも構わない。言い訳はいくらでもできる自信がある。信也君には、まだ女の嘘を見破ることはできないわ。
声をかけようかと思ったら、昨日の学校の先生がやって来た。午前中で面会時間じゃないけど、先生は特別らしい。看護師さんに挨拶をしながら、嬉しそうに信也君のベッドにやって来た。
「信也君、おはよう」
先生はそう言って、重そうなリュックを開けた。信也君は目覚めているんだろうか。
「信也君、先生が来たわよ、聞いてるの?」
声をかけると、
「当たり前だろう、起きてるよ、今日はね、社会科の勉強だから楽しみなんだ」
と嬉しそうな返事があり、話しかけるなと注意された。私には信也君の声が聞こえるし、目覚めていることがわかるけど、先生はわかるのかしら。見た目には、信也君は動かないし、目も閉じているし、声も出ないのに。もしかしたら、先生もマスターみたいに、私たちの声が聞こえるのかしら。試しに、
「先生! 先生!」
と声をかけてみた。だけど、先生は知らんぷりで、やっぱり聞こえていないみたいだ。こんなんで、どうやって授業をするんだろう。私だったら絶対できないわ。だって信也君の身体は返事もしないし、笑いもしないし、勿論返事はできない。だけど、先生は何かを期待しているように見える。何だろう。
信也君に話しかける先生の顔はとても嬉しそうだし、話し終えた後も、信也君の顔をじっと見つめている。何をそんなに見ているのだろう。いくら見たって何の変化も無いのに。
「佐伯さん、ちょっと来て!」
先生が看護師さんを呼んだ。信也君の一番のお気に入りらしい。点滴は一番下手だけど、寝返りをしたり、衣服を着替えたりするような、日常的なことは一番気持ちよくて上手だと教えてくれた。でも一番好きなのは声で、どの人の声よりも、柔らかくて、穏やかで、声を聞くだけで身体の筋肉が自然に緩んでくると話してくれた。
佐伯さんはナースセンターから駆け寄り、モニターを確認すると、
「どうしましたか?」
と先生に尋ねた。
「ねぇ、信也君の顔、笑ってるよね」
先生は、信也君の頬を指さしている。
「あ、ホントだ。笑ってる、笑ってる。私、信也君の笑顔って、初めて見ました」
佐伯さんと呼ばれた看護師さんが嬉しそうに言った。私も信也君の顔を覗き込んだけど、穏やかな寝顔にしか見えない。
「僕ね、信也君が笑ってるって思ったけど、自信なかったんです。だから、信也君を一番よく知ってる佐伯さんにも確かめて欲しかったんです。よかったぁ、佐伯さんが笑ってるって言ってくれれば間違いないですね。信也君は笑ってますね」
先生と佐伯さんは顔を見合わせて笑っている。
「信也君、今、笑ったの?」
本人に確かめたくて訊いた。
「うん、笑ったよ。だってさぁ、先生の顔見てたら可笑しくなったんだよ」
そう言うと、思い出したように声を出して笑った。目は閉じてても、霊体の感覚でどうやら見えるらしい。
「先生の顔のどこが可笑しいの?」
「だってね、話す度に、鼻毛が出たり入ったりするんだよ、先生は何度も鼻を擦ってるけど、その鼻毛は何度擦られても、出たり入ったりするんだよ。もう可笑しくて仕方なかったよ」
信也君は笑いながら言った。悪い生徒だ。
「社会科の勉強してたんじゃなかったかしら、先生のおはなし聞いてたの?」
ちょっと意地悪く言うと、
「話はちゃんと聞いてたよ。今日は戦争の話でね、恐ろしかった。だってね、田舎でお米を作ったり野菜を育てたりしてた人がね、兵隊になって外国に行くとね、とても残酷なことを平気でできるようになるんだって教えてくれた。優しいお医者さんだって、外国に行くとね、生きた人間を使って実験するようになるんだって。人間って、何でそんな風に変わるんだろうね。先生はね、悪いのは人間じゃなくて、戦争が悪いって話してくれた。でも僕はね、戦争を始めた人間が一番悪いと思ったよ」
穏やかな寝顔から、熱心に話す信也君の声が聞こえる。この若い先生にも、信也君の熱心な話を聞かせたいと思う。でもきっと先生には、笑顔だけじゃなくて、声も聞こえていたのかも知れない。だからあんなに嬉しそうに話しかけられるんだと思う。先生は何かを期待して、何かを信じているような気がする。
私は信也君の勉強を邪魔しないように、静かに部屋を出た。後ろを振り返ると、先生は、ウクレレを出して小さな声で歌い始めている。きっと信也君は、先生の鼻毛を見て笑っているんだろう。