実社会での従軍慰安婦や靖国神社の堂々巡りの議論にはうんざりしました。 うんざりしましたが、どうでも良い問題という訳でもありません。 建設的な目標に向かって中立的・俯瞰的に書かれた本を探して見つけたのが本書です。
日本の目前の問題について、直接的には終章「日中和解の可能性」で述べられているだけですが、全体がその一点に向かうための準備になっています。 まずは、戦後講和の歴史的変化について。 過去を風化させない事が未来の平和につながる、という考え方が意外に新しいことが押さえられます。 次は、第二次世界大戦後の日独の違いについて。 よく言われる“ドイツは反省したが・・・”という話よりも、周辺状況の違いに重点がある書きぶりになっています。 準備の最後は、戦後和解の成功例としての日英関係について。 結論としては、「個人の意思と多様性とを許容する民主化された社会の存在が大前提」とのこと。 私個人は、本書で紹介されている英国側の対日感情の悪さに、ずいぶん驚きました。 で、日中和解についても、中国側の経済発展と民主化が待たれる、ということのようです。
さて、本書を読んで改めて考えたことをいくつか記します。 まず、本書ではほとんど言及されていない韓国について、中国よりも経済発展と民主化が進んでいるにも関わらず、和解の兆しすらないのはなぜだろう、という疑問。まだまだ経済発展が足りないのか、民主化に多様性が伴っていないのか・・・。 欧州各国にある寛容を善とする傾向も、戦後和解には必要なのではないでしょうか。本書において多様性が重視されているのは、寛容を目指す個人の声に期待するが故なのですから。 日本の更なる反省については、あまり書かれていませんでした。 ドイツが戦争犯罪者を継続的に裁いてきたことに言及しているにも関わらず、です。 ちなみに、私が最も重視しているのはこの点です。 日本は、末端の戦争犯罪者をほとんど裁いていないではないですか。 他国との和解に必要だから、ではなく、自らを省みて恥ずかしくはないのか、という意味です。 ある時は、「軍部」の強制で一般国民が戦争礼賛に向かわせられた、と言い、ある時には、下級兵士による戦争犯罪に「軍部」による指示はなかった、と言う。 実際には、国内の民間人も含めて多くの戦争犯罪があったであろうに、責任のたらいまわしによって結果としてほとんど誰も追及されていないのです。東京裁判以外の独自裁判では。 もちろん、単に自分に甘いわけではなく、東京大空襲や原爆投下という“戦争犯罪”の責任も問わないことによって、日米和解が奇跡的に進んだわけですが。 A級戦犯合祀については、中国が東京裁判の結果を重視している、という指摘があったくらいですが、もう少し掘り下げる余地がありそうです。 先ほどの、日本が誰も裁こうとしない、という構図に中国も加担していることになるのもそのひとつ。 ユダヤ人排斥を組織的に進めたドイツのナチス党指導部と比べれば、日本のA級戦犯が負うべき具体的な罪はかなり不確かなのに、その他の国民と天皇の身代わりになったわけです。死刑執行されて靖国神社に祀られたA級戦犯ばかりを問題視するのは、その他の人々の罪をあいまいにすることにつながります。 また、神社に祀ることは、神や英雄として肯定的に崇めることではない、という説明を日本はもっとすべきなのではないでしょうか。 例えば、日本史上有数の反乱者平将門が関東の守護者として祀られている事などを挙げれば、宗教観の違いを欧米人に気づいてもらうくらいはできるでしょう。
戦後和解 - 日本は〈過去〉から解き放たれるのか (中公新書 (1804))
- 作者: 小菅 信子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2005/07/26
- メディア: 新書